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(三)「歌仙手鑑」の先例

「歌仙手鑑」の古い例では、世阿弥光悦の書と土佐光茂(みつもち)と推定される土佐派の絵師の歌人絵で成り立つ版本の『光悦三十六歌仙』[1]がある。この本が制作された寛永年間(1624~44)には土佐光茂(みつもち)はすでに死去しているので、版本の歌人画の版下は光茂(みつもち)ではない土佐派の別の絵師が描いた事態が想像できる。これとほぼ時期を同じくして角倉素庵の『素庵三十六歌仙』と、同じく素庵の百人一首本である『素庵百人一首』が成立している。いずれも土佐派の絵師の協力で成立しており、土佐派の絵師と京都郊外、鷹峯の芸術村の関係者との友好的な関係がうかがわれる。そしてこの歌仙画帖が、土佐派の権威と、光悦、素庵の名声を背後にして「百人一首歌人絵」の基準作ともなったし、それと異なる表現の刊本の出版を制約した。その後に出版された刊本の百人一首歌仙絵画帖は、いずれも『素庵百人一首』の図像を真似て成立している。

「歌仙手鑑」は私の手元にもある。これは、外箱に「歌仙手鑑 壹冉(ぜん)」と題された江戸時代前期(1652~1704)の三十六歌仙画帖一冊である。元々は北陸の大名家の家中にあった大名道具であろうが、明治年間(1868~1912)までに流出して質屋の蔵に収まるなどの流転を経て架蔵に帰した。歌仙絵は一枚が縦三十五・五センチ、横二十一・三センチ、縦横比率六十パーセントと大型の長方形で、「手鑑」としては異例の大きさであるが長方形のもので、江戸時代前期の一つの流行であることが分かる。

素庵筆百人一首
素庵筆百人一首
(右:在原業平朝臣、 左:伊勢、
江戸時代初期)
素庵三十六歌仙
素庵三十六歌仙
(右:伊勢、左:山邊赤人、
江戸時代初期)
光悦三十六歌仙
光悦三十六歌仙
(右:人丸、中:業平朝臣、
左:伊勢 、江戸時代初期)

この画帖では、三十六枚の歌仙絵は二人の町絵師の作品であって大きく二分され、金泥で草花模様を描いた地紙に、小野於通(おつう)流の流麗な書と自然であることを心掛けた(女性歌人の顔面も白く着色していない)人物像を加えた岩佐又兵衛工房風のものが二十一枚、雲模様の地紙に、やや細筆で端正な書と定型的な(顔面白塗りの)人物像を加えたものが十五枚あり、二組の書家、絵師の合作である。歌仙絵の構図は、一、二の例外を除けば住吉具慶の『三十六歌仙絵』[2]によく似ており、これに影響されつつ描かれたものに見える。これには、「丙子九」つまり元禄九年(1696)の古筆了眠(りょうみん)の、表に「小野氏通女筆 哥仙之哥三十六枚(琴山印)」、裏に「人磨 龍田川 中務 秋風の 有繪 丙子九(了眠印)」とある極札が付いている。そうすると、元禄九年(1696)が、手鑑が完成して仕上げとして古筆家の極札を得た年なのであろうか。

三十六歌仙手鑑
『三十六歌仙手鑑』
(架蔵、江戸時代前期)
三十六歌仙手鑑
『三十六歌仙手鑑』
極札(架蔵、江戸時代前期)

[1]『江戸の歌仙絵―絵本にみる王朝美の変容と創意』、国文学研究資料館、平成二十一年、八頁。

[2] 気多恵子「オックスフォード大学ボドリアン図書館附属日本研究図書館蔵『三十六歌仙絵二種貼交』」『十文字国文』第八号、十文字学園女子短期大学国語国文学会、平成十四年、三一頁。

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