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六 バジル・ホール・チェンバレン

バジル・ホール・ チェンバレン
バジル・ホール・ チェンバレン

お雇い外国人のバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)は、明治二十三年(1890)に『日本事物誌』[1]を出版した。同書は好評で、その後、版を重ねてベストセラーになったが、初版からすでにカルタに関して次のような記述がある。

外国交渉の始まったむかしから、彼らにも同じように一種のカルタ遊びがある。その中で『花ふだ』が最も人気がある。これはあまりにも人気があり、誘惑的なので、お金を賭けてこのゲームをやることを公けに禁止しているほどである。このかるたは四八枚あり、一年の各月に四枚ずつである。月は、その月に特有な花によって区別される。四枚一組の中で一枚は、鳥や蝶によって区別され、さらにもう一枚は一行の詩が書いてあり、これらは特に値打がある。このゲームには三人が参加し、賭け金がある。勘定方法はかなり複雑であるが、含まれている思想は優美である。別のカルタ遊びは、花の代わりに、一〇〇人の歌人として知られている人々から成る歌〔百人一首〕がある。このゲームでは賭け事は決してなされない。これは家族の集まりのときの娯楽であって、新年には、しばしば徹夜でゲームをする。
チェンバレン『日本事物誌
チェンバレン『日本事物誌

チェンバレンは、花札と百人一首を共にカルタと認識した最初の外国人であり、そこには、家庭内で、家族や友人とともに楽しむカルタの遊技というイメージがある。なお、「彼らにも同じように一種のカルタ遊びがある。その中で『花ふだ』が最も人気がある」と翻訳されている文章は、正しくは「彼らにも同じように数種類のカルタ遊びがある。その中では花合わせ、別名『花ふだ』が最も人気がある」である。当時、花合せは家庭娯楽用品らしい呼称で、花札はやや賭博色が強い呼び方であった。チェンバレンはどちらも逃すことなく把握していた。翻訳はそれを正確に伝えてはいない。いずれにせよ、花札は幕末期から賭博系のカルタ遊技に盛んに用いられるようになり、とくに横浜の外国人居留地の遊郭を発祥の地とする「横浜花」の遊技法とそれに用いるカードの普及、拡散は顕著であったので、外国人の眼に留まりやすくなっていたが、これを本格的に紹介したのはチェンバレンが最初である。


[1] Basil Hall Chamberlain, “Things Japanese.” Hakubunsha, 1890.

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