この際、更にもう一歩を進めておこう。幕府は、なぜ江戸狩野派の歌仙絵を高く評価して受容したのか、である。その背景には幕府による文化政策、文化における主導権の掌握という政策の進展がある。徳川家康が関ケ原の合戦の勝利で天下人になってから試みたのは、下剋上で主家を圧倒して成立した新政権の内部での新たな下剋上の発生を防止して、政権の安定性を確保することであり、晩年の豊臣秀吉の常軌を失した行動がその政権を崩壊させたことを教訓に、家康自身が文化の理解者になり、文化の主である天皇との「公武合体」を遂げることで、徳川政権の文化的な妥当性を示すことにあった。家康は、どこまで内面的に理解していたかは不明だが、学問を好み、和歌を学び、古書を集め、能狂言を奨励し、首都であった京都の文化圏での権威ある地位を獲得することに務めた。

中宮和子(光雲寺蔵、江戸時代初期)
中宮和子(光雲寺蔵、江戸時代初期)

これを継いだ徳川秀忠は、娘の和子を後水尾天皇に嫁がせて男児を得ることで徳川の血統を受け継いだ天皇を作り、天皇が持つ文化的な指導権の血統を徳川が吸収することを試みた。また、「紫衣」事件のように、宗教界での天皇の地位と権威を奪って幕府のものにしようとも試みた。和子の入内に当たっては、それまで一万石の御料しか与えられていなかった皇室との婚儀であるのに、七十万石を費やしたと言われるほどの巨費を投じて、すべての婚礼用具を京都で整えることとし、また、それを機会に京都で天皇の御所、和子・東福門院の女御御所、後水尾上皇の仙頭御所、後水尾の母、中和門院の女院御所の造営などの建築、火災後の再建を盛んに行うとともに、二條城の改修、清水寺、石清水八幡宮の復興などの公共土木事業も推し進めて京都に莫大な土木、建築、工芸、美術の需要を生み出して、天下人である徳川の財力と文化面での寄与を誇示した。

秀忠が目標とした徳川の血統を受け継ぐ天皇の創出の試みは、後水尾天皇と和子以外の女性の間にできた子どもが数多く流産させられ、生誕して男児であると幼時に一夜で急死して皇統譜から除外される悲惨な状況を生み出し、これに対する朝廷側からの報復のように、和子が徳川の血統を受け継ぐ男児、皇子を生むと乳幼児の時期に一夜で急死する陰惨な事態を招き、結局は、徳川の血統を受け継ぐ天皇を作るという野望は失敗に終わり、後水尾天皇が他の女性に産ませた男児、皇子を和子の養子としたうえで皇位に就けることで折り合いがついた[1]。かつて藤原氏、平氏が行った婚姻を通じた天皇の血統の自家への吸収は、徳川氏の場合は挫折したのである。


[1] 田中剛『菊と葵―後水尾天皇と徳川三代の相克』(ゆまに学芸選書)、ゆまに書房、平成二十四年、は小説仕立てであるが、この辺の事情に詳しい。

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