私は、京劇の名女形俳優、梅蘭芳が、日中戦争の時期に、香港を占領した日本軍に京劇を演じて占領を称賛するよう強要されたのに抵抗して苦しめられながらも、麻雀仲間の日本人とは親しく交わり、そこで日本人に贈られた麻雀牌が今では麻雀博物館に展示されていることを書いたことがある。梅蘭芳が、髭を生やして女形を演じることを拒否し、日本の敗戦を知るとその日に京劇への復帰を決意してその髭を剃った故事は、日本軍に抵抗していた中国人の感動を呼び、中華人民共和国の成立後は、梅蘭芳は人民英雄として尊敬されるようになった。そこで、梅蘭芳の麻雀道楽は、アヘンの問題や女性との交際の問題などと共に背後に押しやられ、梅蘭芳が交際していた麻雀仲間については特定されていない。そういう梅蘭芳の仲間の一人が榛原であったことを明らかにできるのは、もはや日本側でしかないだろう。

榛原の『麻雀精通』には、二ヶ所、梅蘭芳との麻雀の交遊に関連する指摘がある。それですべてである。第一は、榛原が「梅蘭芳のマネヂャア兼作者」の齊如山から、出身地の「直隷(今の河北省)高陽地方」にはマーチャオ紙牌のゲームがまだ沢山残っているという話を聞いたことがあるという記述[1]である。第二は、梅蘭芳の家での話で、「私が梅蘭芳の家で見たものなどは、梅が上海へ興行に行つたとき、わざわざ蘇州まで行つて仕入れて来たという由緒つきのものだが、六十元だといつてゐた」という記述[2]である。

榛原は、というよりも本名のほうがふさわしかろう、波多野乾一は京劇にも詳しく、その京劇史研究は中国人をも凌駕していた。『支那劇と其名優』『支那劇大観』『支那劇五百番』などの書がある。彼は、多くの京劇関係者と親交があり、梅蘭芳とも交際があった。この記述は、たまたま書き残されたものであって、その背景には、長年の親交、特に、麻雀の好きな二人であるから、麻雀卓を囲んでの親交があった。

このように、梅蘭芳の麻雀仲間であった日本人として榛原を指摘し、彼とその周辺の日本人を想起するところでこの文章を止めておきたい。上に引用した梅蘭芳特注の「六十元」の麻雀牌はどういうものであったのか、もしかしたらそれが、いま、麻雀博物館に展示されているものなのか。梅蘭芳からこの牌を贈られた日本人は榛原であったのか。想像はいろいろと膨らむが、それを検討するのは別の機会にしたい。

1930年代の北京、梅蘭芳の舞台を見た帰りに榛原も連れ立って梅蘭芳の居宅に行き、美酒を傾け、その日の舞台を論じ、怪しくなりつつある日中の関係を嘆いているところに、齊如山が梅蘭芳お気に入りの特注麻雀牌をもって現れ、「そろそろこれにしますか」と誘う。そんな情景を想像するところで、ここでの話は終わりである。


[1] 榛原茂樹、前引『麻雀精通』、一二頁。

[2] 榛原茂樹、同前『麻雀精通』、二八頁。

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