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五 「歌合せかるた」の凋落

江戸時代のかるた文化で、明治維新後の武家社会の崩壊の影響をもっとも強く受けたのは「歌合せかるた」の没落である。この時期に、「百人一首歌合せかるた」「源氏物語歌合せかるた」「伊勢物語歌合せかるた」などの図像の付いたかるたも、書の美を鑑賞する「古今集歌あわせかるた」「新古今集歌合せかるた」「自讃歌集歌合せかるた」「三十六歌仙歌合せかるた」も、ともに衰退した。武家社会にあった、和歌を鑑賞し、和歌を詠む教養が薩長出身の野卑な支配者の横行の中で顧みられることもなく見捨てられ、成立した学校教育においても和歌の学習は力を失っていった。

そうした中で、「百人一首歌合せかるた」だけは、カードの図像に校訂を施したり、選歌を改めたりして生き残りを図ったが、それも主要には明治二十年(1887)以降、近代のかるた文化の勃興の中で起きたことであり、江戸文化としては「歌合せかるた」の衰退が目立つ。また、遊技の面でいえば、かるた会が新年に男女が同じ場所に集まって交際できる数少ない好機と位置付けられることで、いわば合コンの席での余興として寿命を保った。尾崎紅葉の『金色夜叉』前編第 一章(一)の二の中の次の描写は、新聞連載の時期からすると明治二十年代末期の風俗であるが、かるた会の描写としてあまりに有名である。

「箕輪(みのわ)の奥(おく)は十疉(てふ)の客間(きやくま)と八疉の中の間とを打抜(うちぬ)きて、廣間(ひろま)の十個所に真鍮(しんちう)の燭臺(しよくだい)を据(す)ゑ、五十目掛(がけ)の蝋燭(らふそく)は沖(をき)の漁火(いさりび)の如く燃えたるに、間毎(まごと)の天井(てんじやう)に白銅(ニツケル)鍍(めつき)の空氣ラムプを點(とも)したれば、四邊(あたり)は眞晝(まひる)より明(あきらか)に、人顔も眩(まばゆ)きまでに耀(かがや)き遍(わた)れり。三十人に餘(あま)んぬる若(わか)き男女は二分(ふたわかれ)に輪(わ)作(つく)りて、今を盛(さか)りと歌留多(かるた)遊(あそび)を爲(す)るなりけり。蝋燭(らふそく)の燄(ほのほ)と炭火(すみび)の熱と多人数(たにんず)の熱蒸(いきれ)と混(こん)じたる一種(いつしゆ)の温氣(うんき)は殆(ほとん)ど凝(こ)りて動(うご)かざる一間(ひとま)の内を、莨(たばこ)の煙(けふり)と燈火(ともしび)の油煙(ゆえん)とは互(たがひ)に縺(もつ)れて渦巻(うずま)きつゝ立迷(たちまよ)へり。込合(こみあ)へる人々の面(おもて)は皆赤うなりて、白粉(おしろい)の薄剥(うすは)げたるあり、髪(かみ)の解(ほつ)れたるあり、衣(きぬ)の亂次(しどな)く着頽(きくづ)れたるあり。女は粧(よそほ)ひ飾(かざ)りたれば、取亂(とりみだ)したるが特(こと)に著(いちじ)るく見ゆるなり。男はシャツの腋(わき)の裂(さ)けたるも知らで胴衣(ちよつき)ばかりになれるあり、羽織を脱(ぬ)ぎて帯の解(と)けたる尻(しり)を突出(つきだ)すもあり、十(とほ)の指(ゆび)をば四(よつ)まで紙にて結(ゆ)ひたるもあり。然(さ)しも息苦(いきぐる)しき温氣(うんき)も、咽(むせ)ばさるゝ煙(けふり)の渦(うづ)も、皆(みな)狂(きやう)して知らざる如く、寧(むし)ろ喜びて罵(のゝし)り喚(わめ)く聲、笑頽(わらひくづ)るゝ聲、捩合(ねじあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き、一齊(いつせい)に揚ぐる響動(どよみ)など、絶間(たえま)無(な)き騒動(さうどう)の中(うち)に狼藉(らうぜき)として戯(たはむ)れ遊(あそ)ぶ爲軆(ていたらく)は三綱(さんかう)五常(ごじやう)も糸瓜(へちま)の皮と地に塗(まび)れて、唯(たゞ)これ修羅道(しゆらだう)を打覆(ぶつくりかへ)したるばかりなり。」

明治二十年代(1887~96)以降には、大学生の倶楽部間の対抗早取り競争から、萬新報社による「競技かるた」の提唱を経て、スピードを争うスポーツの要素の濃い遊技として継承されたし、それに見合うように活字を用いる「標準かるた」が登場して公平性を誇ったが、それはまた別の話である。

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