金櫕根『朝鮮賭博要覧』、共榮社、大正十五年。
金櫕根『朝鮮賭博要覧』、
共榮社、大正十五年。

大正年間については、大正十五年(1926)に公刊された金櫕根著の『朝鮮賭博要覧』[1]が著名である。この書では、「第一章賭博ノ種類」「第二章賭場開帳」に続いて、「第三章闘箋ヲ使用スル賭博」「第四章骨牌ヲ使用スル賭博」「第五章花札ヲ使用スル賭博」「第六章ユツヲ使用スル賭博」「第七章トンチキ」「第八章其他ノ賭博」とあり、第五章の記述の冒頭に朝鮮における花札、「花闘(ハツト)」の普及について次の記述がある。

第五章 花札ヲ使用スル賭博(ハツト)

「ハツト」トハ、所謂内地ノ花札ノコトヲ朝鮮語テ譯シタ語テアルカ、漢字テ書ク時ニハ「花闘」ト書クノテアル。

 此ノ花札ハ、今ヨリ約四百年前ノ所謂壬辰亂ノ時、李元翼氏カソノ軍兵ノ居眼(居眠?)ヲ妨ク爲メ之レヲ書イタト云フコトヲ或ル書物ニ書イテアルノヲ見タコトカアルカ、ソノ後全然ナクナツテ、今ヨリ約三十年前後ニ更ニ内地カラ朝鮮ニ輸入シ、今ハ相當ヤリ手カ多クナツテ若イ者ハ普通之レヲ以テ博戯ヲヤルノテアルカ、然シヤリ方ハ幾種類カアルノテナク只八十ノ馬鹿花位テアツタカ爲メ、ヤリ方ノ名稱カ花札ト云フコトニナツテ、花札ヤルト云ヘハ當然八十ノ馬鹿花テ他ニ何等ノヤリ方ハ判ラナカツタノテアツタカ、今ハ内地ニ來ル者カ多クナツテ内地ニ久シク居ツテ朝鮮ニ歸ル者カ多イ爲メ、色々ナヤリ方ヲ覺エテ行ツテ内地ノ花札ヲ使用シテ博戯ヤルノハ全部ヤル爲メ、花札ハ内地テヤル方法ト同様テアル

『朝鮮賭博要覧』は司法関係者による調査、研究の成果であるが、同じく司法関係者による解説としては、大正四年(1915)の東京區裁判所検事局検事、清水行恕著の内部資料『東京管内賭博要覧』[2]が東京中心に花札(およびメクリ札、カブ札など)の遊技法を詳説し、それを増補した大正十年(1911)の鹽野季彦『司法資料第一號 定型ある犯罪の調査(賭博編)』[3]での日本社会での花札遊技法に関する記述がある。『朝鮮賭博要覧』は、残念なことに、上に紹介した前振りの文章に続く遊技法の具体的な解説の部分では、まるっきり鹽野の著作の引き写しに終始していて、何か新事実の解明に資する史料的価値が薄い。そこには、現実の朝鮮社会ないし在日朝鮮人社会で実際に行われていた「花闘(ファトゥ)」の遊技法の調査報告はない。また、昭和二年(1927)の報告書「内地に於ける朝鮮人と其の犯罪に就て」[4]においても、「朝鮮に於ても内地に來りたる留學生又は亡命者に依り傳へられたるか、内地の花札賭博を花闘と稱し敢行するもの多く内地朝鮮人間に於ても花合せ等行はる、之は内地に於けるものと異ることなきが如し、依りて朝鮮古來より行はるゝ賭博につき概説する」であって、花札の遊技法の説明は飛ばして他の種類の賭博の解説に移ってしまっている。

この時期以降、昭和前期(1926~45)に司法当局の中で、在日朝鮮人の賭博犯罪に目を光らせていた中心的な人物に、大阪地方裁判所検事局の検事、三木今二がいる。私は、三木の晩年期に自宅を訪問して面談した経験があるが、その時の好々爺然とした振る舞いとは別人のように、昭和前期(1926~45)の三木は鋭く、検察人脈の主流、鹽野季彦や松阪廣政らとも親しく、思想係検事として非合法の日本共産党の取締にも辣腕をふるっていたが、大阪が勤務地であるので、同地に集住していた在日朝鮮人の動向にも鋭意、関心を持っていた。

三木には、昭和八年(1933)の『司法研究第十七輯 報告書集貮』に収録された、「内地に於ける朝鮮人とその犯罪に就て」がある。この長文の報告書で、三木は、まず日本の本土に渡航してきた朝鮮人について、その経緯、構成、仕事などを詳細に調査、分析し、次いで彼らのかかわる犯罪に筆を進めている。そして、賭博犯罪については、内地の花札、株札、その他を取り上げて、日本人の賭博者に誘い込まれて始めるものであることを指摘する。ここで具体的に言及しているのは、「落」「花合」「株」「シッピン」「クッピン」「虫」「手本引」「賽本引」「二枚引」「三ツキ」「丁半」である。一方、朝鮮に伝来の賭博は、「チクタン」「トク」「ユウ」「バッサリ」「オタト」「ケンキュウ」「ハトノロン」「チョンガキ」「チャット」などであり、こちらは同郷の友人との間で行われている。そして、全体としては、日本人と行う日本式の賭博の方が優勢である。

三木今二『賭博について』、大阪地方裁判所検事局、昭和十二年。
三木今二『賭博について』、
大阪地方裁判所検事局、
昭和十二年。

三木には、さらに、大阪で取締当局者を教育、訓練しており、その際の教材も残されている。昭和十二年(1937)の『司法警察官訓練教材 賭博について』は、その後『賭博の栞』という題名で別に出版されているほどの反響であったが、その中では、日本人と朝鮮人の区別なく、「手本引」「賽本引」「カブ」「タオシ」「ムシ」「オチ」「シッピン」「チクタン」「道齋」を扱っている。このうち、朝鮮伝来の賭博カルタを用いるのは「チクタン」である。

なお、昭和後期(1945~89)になると、三木は検事を退官して弁護士に転じ、京都のカルタ屋の任天堂の顧問弁護士となり、カルタ製造業界と警察、検察の関係を取り持ち、また、昭和二十九年(1954)からの任天堂争議[5]では、難航する労使の交渉の中で経営者側に立って活躍した。その生涯については、孫の潮匡人の「『裏社会の鬼検事』三木今二の生涯」[6]がある。

『ドルメン』、岡書院、昭和八年。
『ドルメン』、岡書院、昭和八年。

また、これは余談であるが、昭和八年(1933)の『ドルメン』に、中溝新一「満洲に行はる賭博のやり方 一」「満洲に於ける賭博のやり方 二」がある。これはもともとは満洲文化協會『満蒙』誌に登載したものを補充して再録したものであるが、主として大連市を中心にして、骰子、骨牌、紙牌、その他を用いた賭博行為について実地で調査して整理したものであるが、そこには、打骰子(ダーサイヅ)、赶老羊(ガンロウヤン)、骰子寶(サイヅポー)、咕嚕孫(グルースン)、推牌九(トワイパイヂウ)、頂牛(デインニユー)、打天九(ダーテイエンヂウ)、闘馬掌(トウマアヂヤン)、打十虎(ダーシーホー)、看對虎(カンデジイホウー)、昇官圖(シヨングワントウ)、打筏(ダーパイ)、開當舗(カイタンプー)、磕錢(コーチエン)、打牌(ダーパイ)、象棋(シヤンキー)、擺棋勢(パイチーーシ)、套鎖錬(トースオリエン)、押彩票(ヤーツアイピヨー)、揺會(ヨーホウン)、抽籤(チユーチエン)、押寶(ヤーポー)、紅黒寶(ホンホーポオ)、跌帛(デイエボオ)、竿子寶(ガンズーボー)=捻紅錢(ニエンホンチエン)、丟坑(テイユコン)、押會(ヤーホウイ)、奮状元(ドヲヅアンエン)と、まさに百花繚乱である。これを見ると、中国東北地域と朝鮮の賭博遊技の関連性も見えて興味深いものがあるが、どういう事情か、ここには花札が抜けている。東北地域には、「大連花」と呼ばれる免税品の花札があり、広く親しまれていたのであるから、この欠落はいかにも残念である。

もう一点、今日の朝鮮では、日本の花札の「松」「梅」「桜」「藤」「杜若」「牡丹」「萩」「芒」「菊」「紅葉」「柳」「桐」の十二種類の植物を「松」「梅」「桜」「黒萩」「蘭」「牡丹」「赤萩」「名月(坊主)」「菊」「紅葉」「柳」「雨」と理解している。この誤解がいつごろから生じたのかは分からない。朝鮮、韓国の文芸作品などを詳細に見れば、あるいはヒントが見つかるのかもしれないが、私にはその術がない。ただ、魯成煥は、韓国各地で採取された「花闘(ファトゥ)」に関する民謡「花闘打令(ファトゥタリョン)」を紹介している[7]。全羅北道高敞郡のものは次のような内容である。

正月松岳に白鶴が泣き 二月梅鳥に鶯が泣く/ 三月桜 太鼓叩く音 天地白波に 皆飛んでくる/ 四月黒萩 信じかたき 五月蘭が乱れ咲いた/ 六月牡丹に蝶を招き 七月紅萩 猪が飛び/ 八月公山に月が明るく 九月菊に菊酒だ/ 十月紅葉に鹿が遊び 梧桐の琴は 絃を選んだだけでもグルグル/ 雨の中お日様が日傘を持ちあっちこっち遊覧しようか/回った回った二百四十で全部回った。

同じく、釜山市の民謡は次のような内容である。

正月松の枝 名残惜しい心 二月梅鳥に 結ばれ/ 三月桜 乱れる心 四月黒萩が空しい/ 五月蘭に蝶が飛び 六月牡丹によく踊る/ 七月紅萩一人で横になり 八月公山から月が出る/ 九月菊花 堅い心 十月紅葉に落ちて/ 梧桐秋夜来るお客様 十二月の雨に濡れて来られないかな。

これらの古くから伝えられてきた民謡では。すでに、黒萩、蘭、紅萩、公山、雨などである。花の名前の変化は相当に古くから生じていたことが分かる。あるいは19世紀末の伝来の当初からこのように理解されていたという事態も想定できる。

なお、「花闘(ファトゥ)」は、当初から金銭を賭ける賭博遊技として成立していた。一般人の間では少額の賭金であったが、上流階級では高額の賭金が飛び交わされた。魯成煥は、日露戦争後の併合直前の時期に、総理大臣の李完用やその取り巻き達の間で行われていた数十万円を賭ける勝負や、両班の子弟が集まって行った「ジッコテンイ」遊技で、破産する者が続出し、数十万円の金が失われた話などを報じる、当時の新聞記事を紹介して[8] 。また、魯成煥とほぼ同時期に、伊藤拓馬も、朝鮮社会で伝統的な闘錢の賭博遊技を研究した論文の中で花札にも触れ、こうした新聞記事を紹介している[9]

また、こういう花闘の性質のためか、朝鮮でも花闘は健全な娯楽には数えられていなかったようである。昭和十六年(1941)に朝鮮総督府は、朝鮮の全領域で、小学校のネットワークを使って全地方の「郷土娯楽」を悉皆調査した。その報告書[10]を全巻見たが、各地から報告された数千件の「郷土娯楽」中で、花札を「有閑階級男女」が「随時」に行う娯楽として骨牌と共に挙げたものはわずかに一件で、外に骨牌を単独に挙げたものが一件あり、さらに「闘戦 冬季 下流男子 遣り方 一より十迄書いた細長い札を持つて二度乃至三度出し合って數の一番大なる人が勝つ遊びである。」とするのも一件あるが、カルタ類はこれがすべてであり、後は数百ページでことごとく無視されている。碁、将棋、双六などが随所に書き込まれているのとは大きな落差であり、花闘の社会的なイメージの低さがうかがわれる。

韓国国立民俗博物館の「花闘」
韓国国立民俗博物館の「花闘」

ここで、植民地時代の「花闘(ファトゥ)」の紹介を終えるにあたって、一組の不思議なカルタ札を紹介しておきたい。それはソウル市の国立民俗博物館が1990年代の終わりに蒐集したものである。植民地時代に流通していた日本製の花札と同じような大きさであり、紙製で、白い縁で切りっぱなしになっている。印象としては「花札トランプ」に近い。

この「花闘(ファトゥ)」で特に興味深いのはその図像である。全体に、描線の柔らかい、朝鮮画風の図柄であり、彩色は、黄色を増やし、藍色を明るい青色にして、赤、黄、青の三色が重ならないように用いられていて、透明感が目立つ明るい色調に仕上げてある。日本風の「朝鮮花札」の濃厚な彩色から脱して明るいオリジナルな彩色にしたことで「花闘(ファトゥ)」としての独自性が現れているといえよう。

また、十二種の紋標の各々を細かく見ると、高点札である「光物」ないし「生き物札」のうち、紋標「松」「梅」「蘭(杜若)」「公山(芒)」「菊」「紅葉」「雨(柳)」の七枚は、「松」の太陽が右上から左上に反転したように左右反転して描かれている。とくに「雨(柳)」では、人物は洋傘をさして赤色の服を着た、西洋帽子の朝鮮人の紳士で、そこには日本の公家の姿も朝鮮の両班の姿もない。そして、日本の花札では多くの高点札の上部に赤色の雲が描かれているが、ここではそれがすべて省略されており、どの札もすっきりとした図柄になっている。この点でも、日本の花札にあるドロドロした色彩感覚を脱していてしていて美しい。なお、「牡丹に蝶」の札には日本の花札で言えば上部になる部分に青色の雲のような彩色がある。しかし、外にこうした彩色はなく、唯一ある「松に鶴」の札では青色は地面を意味している。そして、この「花闘(ファトゥ)」では、牡丹の花は上半分が黄色、下半分が赤色に彩色されており、「牡丹に蝶」でも同様だとすると、最近はどこでも起きている過誤であるが、この札の絵師も、牡丹の花が上部で、蝶がその下と理解していたように見える。そうだとすると、青色は茲でも地面を意味していることになる。想像すれば、この札を見た絵師が、札の最下部に見える赤い雲上のものは不自然なので排除したいが、そうすると絵柄が不完全になるので、そこに青色で草叢ないし地面を描いたということであろうか。

次に短冊札を見ると、合計十枚の短冊の配置や「赤短」「青短」の配色は「花闘(ファトゥ)」での典型的な描き方であるが、「松」「梅」「桜」の短冊上の文字は、日本文字でもハングルでもなく、日本式の「あかよろし」「赤よろし」「みよしの」という文字を崩してよく読めないように描いている。日本文化からの離脱、ないし反日という政治的な主張がないままに朝鮮の絵師が花札を自分のものらしく描こうとしている、稀有な例だと思われる。なお、紋標「牡丹」と「紅萩」では、一組の札の組み合わせが偏っていて、同じ図柄のカス札が二枚用いられている。これは制作者の検品過程でのミスだと思われる。

また、「黒萩(藤)」の札は、上下の識別が難しい。ただ、この紋標の札は黒色が強調されているが、他方で「紅萩(萩)」の札は、猪の下半身が黄色であるほかは赤一色であり、「黒萩」と「紅萩」の対比が強く意識されているので、これは「藤」ではなく「黒萩」を描いたものと判断して並べてみた。これを補足するのが、「桜」と「雨」以外の十紋標でカス札二枚中の一枚につけられている、△が三点、山型に描かれている印である。三つの△は山型に配置されているのでそれによって札の上下を判断すれば、上から下がる「藤」ではなく、下から生える「黒萩」と理解できる。

紋標「梧桐」も注目される。ここでは、カス札の一枚に、下部に右から左に「任天堂」と読める日本文字の表記がある。この点も含めて、このカルタ札には、ハングルは一切使われていない。そして、「任天堂」が右から左に書かれたのは第二次大戦以前の表記法であり、戦後の任天堂製では左から右に「任天堂」なのであるから、この「花闘(ファトゥ)」が手本にしたものが植民地時代に持ち込まれた任天堂製の花札かそれに由来するものであったことが分かる。

また、この札では、もう一点、下部が赤く塗ってある「梧桐」の札の下部に日本文字が二つある。左の文字は「天」と読めるが、右の文字は判読不能である。過去の任天堂製の花札を何点か調べたが、この個所に「●天」という文字表記をしたものは見つからなかった。したがって、これは朝鮮で加えられた文字ではないかと推測される。まず頭に浮かぶのは任天堂製の花札を模倣した現地のメーカーの名前ではないかという推測であり、そうした朝鮮製の「朝鮮花札」がこの不思議な「花闘(ファトゥ)」の手本であったかもしれない。そうすると、私がこの第二次大戦前の「花闘(ファトゥ)」の特徴として指摘してきた点のいくつかは、この「花闘(ファトゥ)」の絵師の工夫ではなく、手本とした、今ではどことも全く分からない現地朝鮮のメーカーが制作した、任天堂の「朝鮮花札」に由来する朝鮮製の「朝鮮花札」の特徴であったのかもしれない。

以上が、この不思議な「花闘(ファトゥ)」の画像を見た私の感想である。これが、第二次大戦前、植民地時代の朝鮮で作られたものであり、現地朝鮮で制作された「花闘(ファトゥ)」という、きわめて珍しい「地方札」の物品史料であることは確かだが、あとはよく分からない。特に気になるのはこのカルタ札の、日本花札の図柄との距離の取り方である。花札を自分好みの図柄のものにしたいという絵師の気持ちはよく伝わるし、明るくシンプルな構図と色彩は好ましいと思えるが、さて、このようにぬるく、ゆるい、日本の花札からの離脱振りをどう理解したらよいのであろうか。そういう朝鮮人の絵師がいたのか、それとも朝鮮にいた日本人の中にこういう人物がいたのか、不思議な謎である。




[1] 金櫕根『朝鮮賭博要覧』、非売品、共榮社、大正十五年、五一頁。

[2] 清水行恕『東京管内賭博要覧』、私家版、大正四年。

[3] 鹽野季彦『司法資料第一號 定型ある犯罪の調査(賭博編)』、司法省調査課、大正十年。

[4]「内地に於ける朝鮮人と其の犯罪に就て」、司法省調査課『司法研究第五輯 報告書集拾』、司法省調査課、昭和二年、

[5] 若宮光三「こゝにも〝近江絹糸〟はある―任天堂争議―」、『労働法律旬報』昭和三十年四月上旬號、旬報社、昭和三十年、二二頁。

[6] 潮匡人「『裏社会の鬼検事』三木今二の生涯」『新潮45』十八巻十一号、平成十一年、二〇二頁。

[7] 魯成煥「韓国で栄えた日本の花札」『文化を映す鏡を磨く――異人・妖怪・フィールドワーク』、株式会社せりか書房、平成三十年、七五頁。

[8] 魯成煥、前引「韓国で栄えた日本の花札」、七四頁。

[9] 伊藤拓馬「朝鮮の紙牌遊戯・闘錢の歴史」『遊戯史研究』三十号、遊戯史学会、平成三十年、七八頁。

[10] 朝鮮総督府『調査資料第四十七號 朝鮮の郷土娯楽』、昭和十六年。但し、『韓国併合史研究資料72 朝鮮の郷土娯楽』、龍渓書舎、平成二十年。

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