二 朝鮮半島での花札の普及、定着

私はかつて、『ものと人間の文化史167 花札』[1]で、「朝鮮花」について次のように書いた。多少の表記を改めたが、当時のままに再現しておきたい。

(五)大日本帝国の植民地経営における花札の活用

 大日本帝国は活発に領域の拡大を追求して、大国になっていった。その際に対外膨張の最前線は、日本軍の軍事行動と土木工事、鉱物資源採掘関連の土建業で占められていた。そのためには、軍の物資の輸送や鉱工業、土木工事の展開のために大量の労働者が送りこまれ、そして、そういう現場にはいつも花札が大量に舞っていた。大日本帝国の膨張の最前線には常に花札があった。かつてアメリカ帝国主義はコカコーラ帝国主義と呼ばれ、日本は仁丹帝国主義といわれたが、それを借りて表現すれば、大日本帝国は花札帝国主義であったと言える。私が大日本帝国の花札という概念を提示している理由の一半はここにある。

 (中略)

 「北海花」に続いて大きく発達したのが「朝鮮花」である。この地においては、明治二十七、八年の日清戦争において、この地を制圧した日本軍の兵士が花札を大量に持ち込んだ。これが朝鮮における花札の始まりであるが、その後も日本の花札屋が現地に芽生えた需要を狙って輸出を試みていた。そこに生じたのが明治三十七、八年(1904~05)の日露戦争であり、再び大量の花札が持ち込まれた。ここに強くかかわったのが明治三十五年(1902)の骨牌税導入に伴い廃業した花札屋に残されていた売れ残りの在庫品である。これは厳密には持っているだけで違法なものであり廃棄しないと罰せられるが、なお経済的な価値が残っているので廃棄しにくいものでもあった。そこに目を付けた京都の花札屋、とくに「日本骨牌製造」は廃業した他の業者の倉庫に眠っていた花札を朝鮮に輸出するとして買いたたいて仕入れて、実際に朝鮮への輸出を始めた。骨牌税法第十二条も輸出用の花札は納税を免除していたので好都合であった。廃業した同業者の倉庫に残っていたカードを買って簡単に寄せ集めて一組にするので不揃いであったり、品質が落ちたりすることなどがあったが、それはあまり気にしなかった。要するに、十二紋標、四十八枚のカードがあればよしとされたので、中には、複数の花札屋の製品を混ぜて一組にすることもあった。いずれにせよ、安価で、朝鮮人の人々でも買えるように供給しようというのが花札屋の戦略で、それはヒットして花札が朝鮮で大流行して、日本にあった大量の不良在庫がきれいに処分できたと言われている。

 朝鮮は、その後日本が保護領化し、さらには併合した。花札は堂々と売られるようになり、爆発的に流行した。花札は「花闘(ファトゥ)」と呼ばれ、日本では盛んだった「八八花」は「横浜花」と呼ばれて遊ばれていたが、それよりも「八十の馬鹿花」という比較的に単純な遊技法が盛んであった。それとともに、今日の韓国で「ゴー・ストップ」と呼ばれる技法が盛んになり、これは日本本土に伝播して「コイコイ」の技法となった。

 朝鮮と骨牌税との関係であるが、骨牌税法は外国への輸出品には税金をかけていなかったので、朝鮮に輸出されたものは無税であった。そして、朝鮮の併合後も、同地に骨牌税を課する法令は制定されず、免税の状態が継続した。朝鮮で内地なみに課税されるようになったのは、昭和六年(1931)に朝鮮骨牌税令(昭和六年四月十五日制令昭和六年第一号)、朝鮮骨牌税令施行規則(昭和六年四月二十四日朝鮮総督府令第四十五号)及び付随する制令、総督府令が発出されたとき以降である。

 花札は大日本帝国による朝鮮支配の有力なツールになっていて、朝鮮に渡った支配者の日本人にも、支配された朝鮮人にももてはやされた。そして、日本に滞在して帰国するものが増える時期になると、日本各地のローカルな遊技法も伝わるようになった。明治末期には、仁川の港から京城(ソウル市の当時の呼称)迄の道筋には花札の売店が軒を連ねていたという記録もある。売店とは実は花闘局であったのだろうか。朝鮮での花札の大流行の状況については、大正期(1912~26)の記録でも、日本国内での需要よりも朝鮮における需要の方が大きいほどであった。

 朝鮮では、基本的には安価な商品が売れたので、花札屋はそうした需要に応じて安価な朝鮮向けの花札を開発した。分厚い洋紙を用いて、手摺りではなく機械で図柄を印刷してカードの大きさに裁断するだけで出来上がる品物であり、花札製作の最大のポイントである裏紙を折り返して表紙の縁にする縁返し(へりかえし)の工程が省略されている。業界では、このタイプの花札を「切りっぱなし」と呼んで全くの安物扱いをした。朝鮮花とは切りっぱなしの安価な花札を指す。

 但し、そうは言うものの、朝鮮にも中級品、高級品が行かなかったわけではない。現地に乗り込んだ多くの日本人の家族が遊技に用いるのは日本国内の物と同じレベルであった。そして、朝鮮への進出に熱心であった花札屋の「日本骨牌製造」が、たまたま「芒に満月」の札の満月の中に黄色で餅を搗く兎の絵を入れたこの会社だけに特有の図像の物を大量に輸出したところ、これが影響したのか、朝鮮では、満月の中に何かを描くのが高級品の証ということとなり、その後も様々な意匠が用いられた。この伝統は今日まで残っていて、今でも韓国の花札では満月の中に必ず何かが描かれている。また、たまたま「五光」を構成する「光」物の札に円で囲った光という文字を加えたものを売っていた時期だったので、それが朝鮮に持ち込まれ、それも花札の図柄の標準であると誤解して、韓国の花札では今でも「五光」札に「光」の文字が入っている。その後、「柳」の札の小野道風が朝鮮貴族の両班に代わり、「藤」の札が「黒萩」と理解されて上下がさかさまになった。さらに、韓国の「花闘」の「芒に雁」のカードでは三羽のうちの一番下の雁の胴体が例外なく赤い。日本の花札では普通は三羽とも黄色なので小さいが明瞭な差異である。これがなぜこうなったかというと、日本の花札屋の中で朝鮮への花札の輸出、移出に熱心だった「日本骨牌製造」の花札がこの彩色であったのである。この会社と並んで朝鮮進出を試みた「大石天狗堂」の場合は「日本骨牌製造」を真似て赤くしたものもあるし、「任天堂」のように黄色く彩色したものもある。「日本骨牌製造」と「大石天狗堂」の影響が朝鮮で強かったことの表れであるが、韓国の花札はこれを踏襲して今でも赤い雁を飛ばしているのである。これらは「朝鮮花」の特徴として今日まで継承されている。
朝鮮花札・花闘、ラベル紙(サクラ印、大阪松井天狗堂、大正年間)
朝鮮花札・花闘、ラベル紙
(サクラ印、大阪松井天狗堂、大正年間)

同書では、大阪市内のカルタ屋、松井天狗堂のラベル紙の図像を掲載した。上部の横書きのハングルは「ハットゥ」、中央、花模様上の縦書きのハングルは「サクラ」である。当時は、これが私の所蔵する「朝鮮花」に関する物品史料のすべてであった。その後、上記の福岡県内での発見があり、今では、第二次大戦前に日本で制作されて朝鮮に送られた「朝鮮花」そのものを示すことができる。日本かるた文化館のサイトでは、「地方花」のコレクションの中に、「昭和前期朝鮮花札(日本骨牌製造)」と表記して収録してある。

朝鮮半島における花札の受容に関する記録として古いのは、「近代朝鮮誌・韓末人間群像」と銘打たれた黄玹『梅泉野録』にある1906年の記事であろう。これには日本語訳が二種類ある。大同小異であるが、両方とも紹介しておこう。

闘銭、骨牌、花闘
京や田舎に、昔、賭技があった。
「闘銭」、「骨牌」と言った。つまり、馬吊、江牌の類である。
甲午(高宗三十一、一八九四年)以後、賭は自然に絶えた。
この数年來、日本人が京城および各港埠に花闘局を設けた。賭は紙貨でした。一度に萬銭擲げた。
愚かな紳士、卑しい商人で破産する者が相次いだ。[2]

花札の受容と展開
以前からソウルや田舎では闘銭と骨牌の賭博をしたが、甲午年以後自然に途絶えた。ところが最近倭人達がソウルと各港に花闘局を設置した。そこで賭博し、一回に万銭も賭ける人もある。破産する愚かな両班や馬鹿な商人が多かった。[3]

文中にある「花闘局」というのは「今日のスロットマシンやカジノのような賭博場所で、これを日本人が設置して朝鮮人を主な客にしたのである。このために、今だに花札は日本人が意図的に広めたものであるとよく批判される。とにかく、これもまた韓国社会に花札を拡散させるのに大きく貢献したのは間違いない」[4]と言われている。

これに次ぐのが、日本人、今村鞆の『朝鮮風俗集』中の「朝鮮の賭技(明治四十二年十一月稿)」[5]である。そこには「賭博の種別名稱」に「三、花闘 或は花套、畫闘と稱す、」とあり、「三 花套」に次の文章がある。以下、引用する。

一 賭博の種類名稱
朝鮮に於ては賭博の事を雑技、賭技、ノルム、博戯、博奕等と稱す。其技の種類頗多く、各地多少風を異にせる大略左の如し。
闘 箋 或は偸箋、油套、套箋、投箋と稱す 箋又錢字を用ゆ
骨 牌 或は骨佩、胡牌、江牌と稱す
花 闘 或は花套、畫闘と稱す、
擲 柶 或は四木戯、栗柶、四戯と稱す、
馬 田 或は摴表、摴蒱等と稱す
矢岩爲 或は矢岩囘、従京畫、六字賭、六字錢と稱す
十人契
討 錢 或は打錢、擲錢、五冠、柵投、地錢、串錢、立錢、兄弟穴錢等と稱す、
詩 牌
双 陸

二 賭博の方法及び各器具の形状
賭博の方法は各賭具、多種多様の方法を示す。而して地方によりても亦其方法を異にす。以下其主なるものを解説すべし。
一 闘 銭 【略】
二 骨 牌 【略】
三 花 套
花闘は日本の花札にして各居留地に於て日本人の爲せしもの鮮人に傳はり、又日本に亡命或は留學せしもの之れを習ひて歸り、漸次各地に傳播せしものにして數年前の傳來に係る。従來韓國に行はれたる賭博は甚殺風景のものなりしが花闘は多少の美的趣味あるより一時両班等上流社会又は花柳界に非常に流行せり。方法は内地と同しきもヤクは餘程練達したるものにあらざれば行はず。又花札の名に空山名月とか雨中行人とか老松白鶴とか欄干櫻花とか或は丹梧桐、碧梧桐、丹楓獐等風流に命名せり。
四 柶 【これ以降、略】

[1] 江橋崇『ものと人間の文化史167 花札』、法政大学出版局、平成二十六年、二六九頁。

[2] 朴尚得『黄玹・梅泉野録』、国書刊行会、平成二年、五〇四頁。

[3] 魯成煥「韓国で栄えた日本の花札」『文化を映す鏡を磨く――異人・妖怪・フィールドワーク』、株式会社せりか書房、平成三十年、七三頁。

[4] 魯成煥、前引「韓国で栄えた日本の花札」、七三頁。

[5] 今村鞆「朝鮮の賭技(明治四十二年十一月稿)」『朝鮮風俗集』、斯道館、大正三年、二四五頁。

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