この時期に江戸で活躍していたのが戯作者の山東京伝である。京伝もめくりカルタが大好きで、デビュー作と思われる安永七年(1778)刊の『お花半七開帳利益札遊合』[1]からして『咲分論』の真似をしてめくりカルタをもじった作品であり、そのめくりカルタ好きが趣向になって全面的に開花したのが天明七年(1787)刊の黄表紙『寓骨牌』[2]である。これは、めくりカルタの「六大役」のひとつ「仲蔵」が「赤蔵」「五四六(ぐしろく)」と謀って「六大役」を「九大役」に拡大しようと陰謀を働くというお家騒動仕立てになっている。良い役の側には「青木馬之丞(途中から馬之進)」、小姓の「桐三郎」、許嫁の「六大御前」、家来の「青二之助」、腰元の「お六」、「お七」がおり、悪役には「仲蔵」、「赤蔵」、「五四六(ぐしろく)」に加えて「六代御前」の家来なのに裏切って「仲蔵」の陰謀に荷担する「すべたの八蔵」、「六代御前」に懸想して言い寄る「点銭(てらせん)寺」の住職「すだれ十」、小姓「桐三郎」を狙う男色の「河童十」、修験者で馬之進の太刀「痣丸」を奪う「目玉九蔵」がいて、そこに、不景気で住みにくくなった地獄を出て、娑婆でめくりカルタの役になろうと「娑婆の旅」をしてきた「赤鬼」と恋女房の「幽霊」の二人が縁あって「十の馬込」に宿を借りて良い側に味方して大騒動になるが、最後は大乱闘の場面に「団十郎」と「海老二」つまり「海老蔵」が現れて「仲蔵」を引き摺り下ろし「九大役」にする陰謀を阻止して、「痣丸」も奪い返して大団円になる。ここに登場するのはすべてめくりカルタの役かカードの名前で、最初から最後までめくりカルタのパロディで終始している。「赤蔵」や「すだれ十」も登場するので、赤札抜きではなく。四十八枚で遊技されている。この時期のめくりカルタに関する最も基本的な史料であるが、詳細な説明はこれを復刻した「近世風俗研究会」刊『江戸めくり加留多資料集』における佐藤要人の周到な解説に譲りたい。
山東京伝には寛政元年(1789)頃の黄表紙『孔子縞干時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』[3]もある。さらに、天明九年(1789)の洒落本『青楼和談新造図彙』[4]に「海老 ゑび」(ぴんは上ツているし是から十をめくらふといふむほんだ)と「青桐 あをぎり」(此桐一ツてふある時ハ水てんをかけてばさらをうつ也)を載せ、寛政二年(1790)の滑稽本『小紋雅話』[5]にも「めくりがさね」(めくりかさね 此きれ今はたへて一切なし アゝつかぬつかぬ ざがへでもしてみやう)を載せている。「海老」は「海老二」のカード、つまり「赤の二」の札のことで、せりふの意味は「もうアザピンは手にしているし、これから青の十をめくって海老蔵の役にしようという魂胆だ」である。「青桐」は今日でも「福徳」や「黒馬」に残る図像の「青のキリ」のカードで、せりふの意味は「この札が手中にあるときは『見ず出』を宣言して勝負に出て大暴れする」である。「めくりがさね」は左手に七枚の「めくり札」を持っている遊技開始時の状態の図案化である。「今は絶えて一切なし」というせりふは、めくりカルタ禁止を強行した寛政の改革が開始された時期の空気を伝えている。いずれもめくりカルタ好きの京伝らしい気の利いた作品である。なお、京伝が作品中でカルタ用語を駆使した例は数十件有り、江戸カルタ研究室の「江戸カルタアーカイブ」[6]に見ることができる。
[1] 山東京伝「お花半七開帳利益札遊合」『山東京伝全集』第一巻、ぺりかん社、平成四年、一一頁。
[2] 山東京伝『寓骨牌』及び佐藤優人「江戸めくり加留多資料集解説」はいずれも日本かるた館編『江戸めくり加留多資料集』、近世風俗研究会、昭和五十年。また、前引『山東京伝全集』第一巻、三三五頁。
[3] 山東京伝「孔子縞干時藍染」『校訂黄表紙百種全』、博文館、大正八年、五五五頁。
[4] 山東京伝『青楼和談新造図彙』、三樹書房、昭和五十一年、二三三、二五九頁。
[5] 谷峯蔵『遊びのデザイン-山東京伝「小紋雅話」-』、岩崎美術社、昭和五十九年、一二頁。
[6] http://www.geocities.jp/sudare103443/room/archive/archive-top.html