上方屋銀座店は大きな反響を呼び、花札の販売が公許されたことが明白になった。前田はさらに同年五月二日からは、それまでは自身も禁止の品と言っていた「めくりカルタ」も売り出し、十二月には銀座店の店頭に巨大な賽ころの看板を出し、翌明治二十年(1887)一月には賭博用の賽ころも販売するようになった。当時の常識としては、花札は一般人の遊技と専門の博徒の行う博奕の双方で使われるものであったから一般人への販売を表に立てて合法性が主張できたとしても、「めくりカルタ」になると一般人はこれを遊技に用いないので専ら博徒が用いる博奕道具という性格が強いと思われていたし、賽ころに至っては、子どもが双六に使う陶器製の大きなものと違って、「上方屋」が扱うような牛骨製の小さな品物は純粋に博奕用品と思われていた。そこで、「上方屋」の商法、とくに賽ころまで販売したことに、さすがに多くの人々が驚いたようである。
前田は、東京銀座三丁目での商売を始めるにあたって、「上方製の花合せ箱入」を販売した。東京ではなじみのない大阪商人であるので、江戸時代からカルタの老舗として江戸、東京でも知られていた「天狗屋」の名前を借りての商売であった。前田は自分のことを「天狗かるたや 上方屋」と名乗っており、倒産した天狗屋の関係者と何らかの繋がりがあったものと思われる。旧天狗屋の関係者は、にわかに生じた花札需要の増大で息を吹き返し、京都、大阪の各所で、天狗屋の後継者であるとして、「天狗堂」という名称のついた花札を制作、販売するようになった。上方屋が提供したのはそういう花札であるが、商売が軌道に乗ると「天狗かるたや」の自称は取り下げて「上方屋」一本になった。さらに後には、上方屋ないし系列店の下方屋の名称の入った花札も販売した。また、前田は、明治十九年(1886)九月に京都で花札製造を行っていた職人が京都府の違警罪規定に違反するとしてカルタを取り上げられるとすぐに現地に行き、京都府警察本部と交渉して合法性を確認させている。江戸時代(1603~1867)には花札の販売は禁止されてはいなかったものであるから、前田のこのような商法は、「賭博犯処分規則」の時期の過剰な取締りと自粛に抗して江戸時代(1603~1867)以来の商売の伝統を復活させたものと言える。花札の販売は自由であると見抜いた前田の眼力の勝利であった。
なお、ここで、「八八花札」の画像の成立について述べておこう。東京銀座の上方屋は、当初は、大阪の「天狗屋」の後継者を名乗る、「天狗堂」ないし「大阪天狗堂」の作る、かるた札の図像から和歌を廃した東京好みの花札を商うかるた販売業を始めたのだが、爆発的に拡大する需要に応じるために商売を拡大し、京都のカルタ屋を介して京都の職人が作る花札も商うようになった。
京都の職人集団の作る「八八花札」は、大阪の職人集団の作るものとは図像が多少は異なっていた。私は、とくに①紋標「梅」の梅枝にとまる鶯が、大阪製のものでは小鳥で、京都製のものでは大鳥であること、②紋標「紅葉」の鹿が、大阪製のものでは小さくて動きがあるのに対して、京都の鹿はかるた札一杯に大きく展開されており、まったく奥行きのない平面的な図像であること、この札の右端にある紅葉の樹木の表現が異なること、③紋標「柳」の小野道風のある札の小川が、大阪製のものでは右奥から道風の横を通って左手前に流れているのに対して、京都製のものでは左から道風の奥を通って右手前に流れていること、を区別のポイントとして考えている。「梅」「紅葉」「柳」が鑑定のポイントだったのである。
この京都風の「八八花札」が、上方屋だけでなく、他の様々な販売経路で全国に普及し、ついにこれが全国的に「八八花札」の定番とされるようになった。こうした風潮に応じて大阪のカルタ屋も、京都風の図像の「八八花札」を作るようになり、昭和前期ころまでに大阪風の「八八花札」は廃れた。しかし、大阪風の「八八花札」は消滅したのかというと、そうではなく、どっこい生きていた。大阪には「虫花」と呼ばれる地方札がある。「虫花」の起源は分からないが、「武蔵野」の図柄の「虫花」のかるた札は見たことがないから、明治年間中期(1877~96)以降、「八八花札」のかるた札の図像が成立した後に枝分かれしたものであろう。「虫花」は、「八八花札」一組四十八枚のかるた札から紋標「牡丹」「萩」の札八枚を外して一組四十枚にしたかるたであり、二人で勝負する遊技に使う。この「虫花」の札の図像が地元大阪風の「八八花札」を引き継いでいる。札は四十枚で一組であり、四十八枚で一組の「八八花札」と似た触感にするために、多少厚めに作られていた。京都風の「八八花札」の代表的なメーカーである任天堂でさえも、「虫花」は「八八花札」」とは違う大阪風の図像になっている。この差異が乱れて、「虫花」が単に「八八花札」から「牡丹」と「萩」の八枚を除外しただけのものになって区別がつかないようになったのは昭和後期(1945~89)のことである。
こうして考えてみると、今日、「八八花札」の図像とされているものは、元々は、江戸、東京、横浜の花札を真似て成立した京都の地方札であり、これと似ているが微妙に違う大阪の「八八花札」の地方札もあって、京都風のものが競争に勝って標準的な図柄になったが、大阪風のものもしぶとく「虫花」という大阪の地方札としては生き延びていたということになる。ただ、明治二十年代(1887~96)、花札解禁後の激動の十年には、京都の地方花、大阪の地方花と自覚される間もなく、京都の地方花が「八八花札」のスタンダードと認識されたのであり、歴史上の指摘は意味があるとしても、今ことさらに京都花、大阪花と二分するほどの意義はない。
上方屋の前田がもう一つ力を入れたのが、花札の遊戯法の普及である。そのために前田は早くも明治十九年(1886)三月九日に教本『花あわせ使用法 安心花かるたの技法 花骨牌の免されし譯』の出版届を提出し、四月二九日に内務省に納本して出版している[1]。ここでは、とくに「花骨牌の免されし譯」の部分で、花札販売の合法性を明確にした前田の法律論を展開しているところが興味深い。前田は、明治五年(1872)の「改定律例」第二百七拾一條に博戯(ばくち)に用いる骰子骨牌を売る者は賭博者(ばくちうち)と同罪とあって、世間では「花牌(はなあわせ)」なり「めくり札」なり骰子なりは博戯の器具とされていたが、博戯に用いるのであれば、「いろはがるた」、「化(ばけ)かるた」、「歌かるた」、「西洋がるた」、「源氏合せ」、「双六」、「十六むさし」、「碁」、「将棊」、「玉ころがし」など、すべて官に没収されてしかるべきであり、逆に、まだ賭博に用いるのか用いないのか、幼童が遊戯に用いるのか、婦女子がなぐさみに用いるのかも分らないうちから花札などを賭博の用具と決め付けるのは不当であると言う。前田は、そこで、明治十五年(1882)の「刑法」には販売禁止の明文はないので、内務省、警視庁への届けも済ませたうえでこれの販売を行ったものであると説明している。そして、これは決して賭博を公然と行うことが許されたのではないが、煎餅なり金平糖なりを賭けて遊ぶのであれば、公然と、警察官の面前で遊戯しても合法なのだと強調してこう述べている。
「夫(そ)れ博愽(ばくち)ハ風俗(ふうぞく)を害(がい)する罪(つみ)にして、勝負(かちまけ)を瞬息(すこし)の間(ま)に博(と)するを言(い)ふ。博奕(ばくち)の風俗(ふうぞく)を害(がい)するハ世人(よのひと)の知(し)る所(ところ)にして、其(その)の弊(へい)や往々(おうおう)家産(かさん)を蕩盡(なく)して貧困(ひんきう)に陥(おちい)り、或(あるい)ハ花利(ふり)を僥倖(しあわせ)して遊惰(あそび)に流(なが)れ人々(ひとびと)正業(しようばい)をなさヾるゆゑ、勝(かつ)た者(もの)は無暗(むやみ)にをごり、負(まけ)たものは貧(ひん)の盗(ぬす)みといふ悪(わる)い心(こころ)を出(いだ)す事(こと)ハ随分(づいぶん)世間(せけん)に多(おお)き事(こと)ゆへ、これ等(ら)の者(もの)を禁(いま)しめんが為(ため)に賭博(ばくち)は国法(こくほう)の禁(きん)ずる所(ところ)にして、飲食物(たべもの)などハ格別(かくべつ)前(さき)に陳(のべ)る如(ごと)く弊害(へいがい)の有(ある)ものにあらざるゆへ差(さし)かまへのなきものなれバ、此(この)の骨牌(かるた)を發賣(はつばい)又(また)遊(あそ)ぶのにハ差支(さしつかへ)のない事(こと)ハ僕(ぼく)が保証(ほしよう)いたしおく事(こと)なれ共、財物(たからもの)を賭(かけ)してハ庄屋(しようや)けんでも東八(とうはち)けんでも烏(とり)のけやいでも賭博(ばくち)なれば、御前方(まへかた)も能(よ)く能(よ)く此(この)の邊(へん)の事(こと)を承知(しようち)しておき玉(たま)へ。」 |
こうして、前田の起業は大成功した。その後、前田は、花札の遊技が金銭を賭するものでなければ合法であるとことをさらに明確にするとして、勝ち負けの計算に使う小さな碁石や飲食物の引換券のように見せかけた点数券を考案して売り出し、また、明治二十年代に「八八花」の遊技法が盛んになると、その遊技具をセットにして詰め込んだ「花符函」や高枕の中に花札セットを仕込んだ「花まくら」なども売り出した。さらに、明治二十二年(1889)の『花かるた使用法 全』、明治二十七年(1894)の『花合戦の計略』、同年の『花博士の講義』、明治二十八年(1895)『花のしほん』、同年の『花ふだの憲法』などの小冊子を次々と発行して花札セットに添付して無料で配布して「八八花札」の普及に努めた。
このように、前田喜兵衛は優れた起業家であったのだが、その人となりについてはあまり伝わっていない。前田は大阪で「綿屋」という絵草子屋を営んでいて和本、絵本、一枚摺り等を手広く出版していて、そこでは、西南戦争などの政治にかかわるものも数多く含まれていた。前田は、立憲改進党の支援者であり壮士、院外団の活動もしていたようである。銀座三丁目十五番地の店は、カルタ類と共に絵ハガキも商っていて、往時を知る古老に聞いたところでは、昭和前期(1926~45)の目撃談であるが、前田はいつもその店の奥で火鉢を前にして座っていて、顔には立派なひげがあっていかにも壮士という雰囲気であったそうである。
これは聞き取りから判断していて他にまったく証拠のないあて推量であるが、明治十年代(1877~86)末期の内務大臣や東京府知事はいずれも立憲改進党系の政治家であった。前田の出願が破天荒だったのにスムースに認められたのには、こうした人たちの好意的な取り計らいがあったのかもしれない。さらに言えば、カルタ類の販売の公認という政府の新しい方針を前田にリークしたインサイダーが政府内部にいたのかもしれない。その見返りは、大いに繁昌した「上方屋」から立憲改進党への政治献金であったかもしれない。だが、この事を調べる手がかりは今日では全く存在しない。
いずれにせよ、こうした上方屋のチャレンジにより、賭博、遊技両用の遊技具は合法的な商品として販売できるという世界的標準に日本も追いついたことになる。江戸時代後期(1789~1854)の寛政の改革、天保の改革による奇妙に日本固有の取締が行われてから約百年を経て、西欧諸国の圧力があったからではあるが、日本のカルタ文化は近代への扉を開くことになった。そして、近代のかるた文化を特徴づけるもう一つの大きな出来事が、トランプの解禁と普及であった。次にそちらを見ておこう。
[1] この時内務省に納本されたと思われる一冊が明治十九年五月十四日に内務省より書籍館に寄贈され、今日、国立国会図書館の蔵書として残されている。このためか国会図書館の目録では明治十九年五月の発行とされているが、これは正確には納本の日付である。ここでは書籍自体に記載されている日付を採った。