明治十九年(1886)の春、東京の銀座に花札を販売する店舗「上方屋」が出現した。当時は、花札の売買は禁止という観念が強かったので、これは奇想天外の出来事とされ、世間は大いに驚いた。これを敢行したのは、大阪市の心斎橋通塩町角に店舗を構えて手広く商売をしていた絵草子屋「綿屋」の当主、「綿喜」こと綿屋喜兵衛、本名前田喜兵衛であった。前田の試みは様々な抵抗も呼んだものの営業として大成功を収め、「上方屋」は一躍、日本一の花札の販売業者の地位を確立した。模倣する店も出てきた。この成功で勢いを得た「上方屋」は、引き続き、「めくりカルタ」、賽ころ、「西洋カルタ」(トランプ)なども売り出して、合法的な遊技用品の一手販売という道を確立することができた。

「上方屋かるた出世双六」

前田は、明治二十年(1887)の年末に、花札屋創業の苦労と成功の足跡を双六「上方屋かるた出世双六」[1]にまとめて出版し、翌年の正月にかけて、顧客に配布した。同店の当時の新聞広告には「トランプ花カルタ使用本は無代價で差上升。又其上年玉として雙六やさいころを景物に差上升。」とある。この極めて珍しい史料をもとに、その創業の経緯を見てみよう。

まず、この史料そのものを説明しておこう。これは、B4版の用紙一枚に摺られた木版多色刷りの摺りもので、右側の欄外に「此双六ハ賣品ニあらす🎲ころを添て御客様へ呈上 御用かるた調進所上方屋勝敗堂」とある。本体の表題は「上方屋かるた出世双六」であり、「明治廿年十二月一日御届 同年同月出版 画工出版人 前田喜兵衛 京橋区銀座三丁目十五番地」の刊記が付いている。本体は「ふり出し」から「上り」まで二十二コマの双六であるが、実際に遊技するには小さめで実用性に難があり、あるいは双六風の摺りものという趣向であったのかとも思われる。その内容は次のようである。

上方屋すごろく展開図

(1)廿年(十八年の誤記?)十一月十五日 花かるたの販賣差支なきを法律書より見出す (図像中に)ふり出し

(2)(十八が欠落?)年十二月一日 上方屋販路を開かんと東海丸で上京する

(3)十八年十二月廿五日 明治十八年十二月廿五日かるたの届内務省へ出す

(4)同月御用終 同月御用終に警視廰へ納め(納本?)済となる (図像中に)警視廰

(5)東京の商人無学が多くかるたを恐れて商わざる図 (吹き出し)上方からきた上方屋らは○しものだ               

(6)廿年(十九年?)一月 先生となる某新聞社かるたの廣告恐て断わる

(7)かるた店をかさゞる差配人の恐物

(8)廿年(十九年?)一月 賣始じめの際賣り子警察へ尋問さるゝ

(9)廿年(十九年?)一月十九日 上方屋主人花かるた販賣禁止を願出す (図像中に)「内務大臣殿」「販賣禁止願」               

(10)廿年(十九年?)二月三日 警視(警視廰?)へ呼出され論議の上禁止の願出下戻さるゝ

(11)廿年(十九年?)二月九日 差支なきものとなりはじめて床店薬研堀に開く (図像中に)上方屋 花かるた               

(12)廿年(十九年?)三月頃より 盡気力な人かるたの製刻する

(13)十九年二月 室町三丁目ヘ十九年二月店開き (図像中に)上方屋、花かるた               

(14)十九年三月 銀座三丁目へ十九年三月開店 (図像中に)かるた元祖               

(15)十九年五月二日より はじめてめくりふだを賣出す図

(16)十九年九月 京都製造人違警罪の為にかるた取上げらるゝ

(17)十九年九月 上方屋主人京都に至り警察本部へかるたのため出願す

(18)明治十九年十二月 明治十九年十二月銀座の大さいころを揚る

(19)廿年一月一日 廿年一月一日はじめてさいころをうる (吹き出し)諸人さいころを見てきもつぶす               

(20)廿年一月十五日 かるた勝敗数とりの發明 (図像中に)骨牌数取 (吹き出し)廿年一月十五日重宝もの賣出し               

(21)廿年十一月十五日 西洋かる(た?)の擴張のため半價賣の繁丈 (吹き出し)廿年十一月十五日より西洋かるた上方屋の為大にうれる              

(22)上り(図像は右から)「弁天・うたかるた」「福禄寿・しなかるた」「恵比寿・はながるた」「毘沙門・西洋かるた」「寿老人・ばくち」「大黒・さい」「布袋・いろはかるた」

こうして説明されているように、前田によると、彼は明治十八年(1885)に法律書を読んで、花札の販売は実は合法的であることを知り、十二月一日に汽船東海丸で上京した。彼は年末の十二月二十五日にカルタ販売の営業届けを内務省に提出し、また、御用納めの日に警視庁保安課にも届けを出した上で、明治十九年(1886)一月一日にとりあえず浅草區森田町で売場を設けて実際に販売を開始した。ところが、東京の差配人はカルタを恐れてなかなか店舗を貸さず、また、花形の新聞社もカルタ販売の広告を断った。そして販売にあたった売り子も警察に尋問された。そこで前田は、明治十九年(1886)一月十九日に奇策を採り、「花かるた」の販売禁止を警察に願い出て、二月三日に警察に出頭して議論をたたかわして、結論的に花札の販売は合法であることを確認させ、願い出は却下にさせることに成功した。そして二月九日に、中央区薬研堀町の埋立地に始めて店舗を構えることができた。

錦絵・花合四季盃
錦絵・花合四季盃

前田の経営方針は強気で、二月頃から大阪で天狗屋ブランドの花札の製造を進めるとともに、同月中に東京府中央区室町三丁目六番地に出店し、それが成功を見ると素早く三月に銀座三丁目十五番地に出店した。そして、この銀座店の開店を宣伝するように、自身が座主となって久松町の千歳座(今日の明治座)で「花合四季盃(はなあはせしきのさかづき)」という一幕を上演させた。市川九蔵が「小野道風」を演じ、尾上菊五郎が「かん信」を演じている。この上演を描いた二枚組の役者画[2]がある。画工は「浅草馬ミチ七丁目一バンチ 画工荒川八十八」、版元は「日本バシ室町三丁目九バンチ 版元秋山武右衛門」、つまり画工は豊原国周、版元は月岡芳年の錦絵の出版でも名高い滑稽堂であり、上方屋の意気込みが伝わる。この役者絵では、見栄を切ったポーズの二人の背景に、十五枚の花札が描かれている。時期からして当然であるが「武蔵野」の図像で、月順表示の付いた十二枚に、「赤短冊」役の札三枚を加えた十五枚が舞っている。なお、その後、花札商売が成功すると前田は商売を拡張し、南傳馬町二丁目の店を「カネ中 中方屋」とし、浅草區森田町の創業の店にも関係者を住まわせて「下方屋」としてかるた類の販売業を営ませ、また、日本橋區人形町通長谷川町に卸売り専門の「上方かるた商店」を設けて営業にあたらせた。

この時期の花札遊技の情景を描いた絵画がある。本章の扉の挿絵に使っているものであるが、明治二十年に上方屋が自店の宣伝のために制作したちらしで、左半分には「花がるた、めくりふだ、西洋がるた、さい(賽)ころがし、骨牌大将軍、東京銀座三丁目十五番地 喜屋前田喜兵衛」とあり、右半分井、二人の女性が黒裏の花札で遊技するさまが描かれている。その場に敷いてあるのは緋毛氈で、奥にろうそくの燭台が見える。絵師は揚州周延である。合法化直後の意気高らかな様子がよく分かる。


[1] 日本かるた文化館蔵。これ以外にあるを知らない。

[2] 日本かるた文化館蔵。これ以外にあるを知らない。

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