ちょうどこの時期に、日本に滞在していて、花札について本格的に研究したのがイギリス人のヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry Spencer Palmer)であった。パーマーは、1838年に軍人の家庭に生まれ、一八歳で王立士官学校に入学後、技術将校としての学習、修行に励み、1856年にイギリス陸軍の工兵中尉に任官してから世界各地で精力的に多彩な活動をこなして、明治十八年(1885)に来日した。パーマーは横浜で水道建設の仕事を行い、完成後に大阪、神戸、東京の水道計画にも携わった。その一方で、パーマーはロンドン・タイムスの特派員として契約していて、日本に関する記事を定期的に送っていたが、明治二十六年(1893)に東京で死去した。パーマーがロンドンに送った記事は、その後、『黎明期の日本からの手紙』(“Letters from the Land of the Rising Sun”)にまとめられて出版され、後年、孫の樋口次郎によって日本語に翻訳されて出版された[1]。
彼の人柄は、明晰で活動的であり、日本への深い理解と共感があり、在日のイギリス人社会、また、日本の政財界に多くの友人がいた。その彼が明治二十四年(1891)五月に「日本アジア協会」で行ったのが「花合せ」という報告[2]である。
パーマーはここで、日本かるたの歴史を概観し、それが三百年以上前にポルトガル人かスペイン人によって持ち込まれたことを指摘し、「百人一首かるた」、「源氏かるた」、「古今かるた」、「詩かるた」に触れ、そして主題である「花合せ」に及んでいる。
パーマーによれば、花札の由来はそれが一百五十年から二百年前に考え出されたということ以外にはほとんど分っておらず、賭博行為も花札の販売も禁止されていたのだが、最近の十年間にそれが緩和され、花札が公然と販売され、公然と遊ばれるようになって大流行し、今では日本中で使われている。ここでパーマーは、花札は「一百五十年から二百年前」に考え出されたと言っている。報告をした明治二十四年(1891)から二百年前といえば元禄四年(1691)であり、一百五十年前といえば元文六年(1741)である。パーマーがここでどういう根拠からこう述べたのかははっきりしないが、清水睛風が花札の起源は寛政の改革以後、つまり十九世紀以降であるという誤った見解を述べた時よりも十年以上以前に、清水説に汚染されていなかったパーマーが元禄年間(1688~1704)から享保年間(1789~96)にかけての時期に花札が考え出されていたと述べたことは注目に値する。
パーマーの独自性はこの先にもある。パーマーは、日本人の友人から教わって、花札の遊技法、それも最も複雑な「八八花」の遊技法をマスターし、それがゲームとしての完成度において西洋のカードゲームに引けを取らない優れたものであることを指摘したうえで、各々のカードの名称から遊技のルール、この遊技法に特有の手役、抜け役、出来役、ゲームにおける得点の計算法と勝負の判定についてあますところなく紹介して、この遊技を理解させようとしている。また、文末には花札四十八枚一組の図像が添付されている。このパーマーの報告によって花札はその歴史、カードの構成、遊技法までの全貌が西欧社会に向けて初めて明らかにされたのである。不幸にして、パーマーの報告は欧米のカルタ史の研究者に十分に注目されることはなかったが、それでも最も良質の観察記録として、今日でもなお貴重な価値を持ち続けている。
[1] ヘンリー・S・パーマー著、樋口次郎訳『黎明期の日本からの手紙』筑摩書房、昭和五十七年。
[2] Major-General Henry Spencer Palmer “HANA-AWASE”, Transactions of The Asiatic Society of Japan. Vol.1XIX (1891), p.545