日本のかるた遊技は、当時滞在した外国人の興味も引いた。横浜や神戸などの外国人居留地は治外法権の地であって日本の警察権力は及ばず、その代りにあった居留地警察は西欧社会の常識で一般人の小規模な賭博行為には寛大であり、賭博はとても盛んであった。とくに横浜は、岩亀楼等の遊廓で花札が用いられて「横浜花」つまり「八八花」の発祥の地ともなった。神戸でも、明治二十年(1887)頃から玉つきに続いて骨牌の賭けが流行し、これを知らなければ「上流人士」は「交際に不便を感ずる」[1]ほどであった。

それはそれとして、ここでは、日本のかるた、花札を研究した人々について触れておこう。これについては、すで「江戸期かるた文化の研究」の終盤で扱っていて重複気味になるのでなるべく要約しておきたい。まず、明治期に日本のかるたを紹介した初期の文献としては、明治五年(1872)三月に横浜に設立された「日本アジア協会」(the Asiatic Society of Japan)で行われたアメリカ人の教育家ウイリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis)の報告『日本人児童の遊戯と運動』[2]がある。だがこれは児童の遊戯に焦点があり、取り上げられたのは、「いろはかるた」、「百人一首かるた」、「古今かるた」、「源氏かるた」、「詩かるた」であって、賭博の遊技に用いられるカルタ類は取上げられていない[3]。花札についても取り上げられていないが、当時は子どもも花札で遊んでいたのであるから、これはグリフィスの見落としと言える。なおグリフィスは、後に『日本通史』(“The Mikados Empire”)を公刊し、その第二部日本滞在記中にこの報告を収録したが、その際にも記述を改訂してはいない。彼のかるたへの関心は薄かったようである。

この「日本アジア協会」の設立に一年遅れて明治六年(1873)に東京に滞在中のドイツ人によって「ドイツ東洋文化研究協会」 (Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens)が設立され、研究報告がなされて『ドイツ東洋文化研究協会会報』(“Mitteilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasien s “)誌上で公表された。御雇外国人のルドルフ・ランゲ(Rudolph Lange)はいち早く「イロハかるた」について発表し、京都洋学所の語学教師なども勤めた機械工学技師ヘニング・ルドルフ・フェルディナント・レーマン(Henning Rudolph Ferdinand Lehmann)は「歌かるた」について発表した。レーマンはこの発表の最後で日本のかるた史全体について言及し、『和漢三才図会』における「南蛮カルタ」への言及を紹介し、次いで、報告当時の事情について語り始めた。

レーマンは、以前の「南蛮カルタ」はもはやそれが四種四十八枚構成であったことしか現状においては留めていなくて、それに代わって「花合せ」というかるたが賭博に使われていると指摘した。賭博は厳しい刑罰で禁止されているが秘密に行われていて、下層階級の人々の間で、また上級階級の女性の間で盛んであり、遊技者は、ありったけの金銭を賭け、資産を担保に入れて、このゲームにのめり込むが勝利する者は少ないのである。

このレーマンの指摘は、明治十年代(1877~86)、まだ花札が違法なものと考えられていた当時にそれに触れたものであり、外国人が花札と特定して論じたおそらくは最初の例である。その意義は大きい。また彼が、花札は上流階級の女性が盛んに用いていると書いたことも注目するべきであろう。

明治二十年代(1887~96)の初め、花札の解禁直後に日本のかるたに触れたのが明治六年(1873)に来日して、海軍兵学校、東京帝国大学の教授を経験していたバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)である。チェンバレンが明治二十三年(1890)に表した『日本事物誌』(“Things Japanene, Being Notes on vatious subjects connected with Japan.”)には次のような記述がある。

「外国との通商の始まった初期の頃から、日本には何種類かのかるたがあり、その中で『花かるた』がもっとも人気がある。これはあまりにも人気があり、人を誘い込むので、金を賭けてこのゲームをやることを公けに禁止している。このかるたの札は四八枚であり、一年の各月に四枚の札であり、各月の札はその月にふさわしい花によって識別される。四枚一組の札の中で一枚は鳥や蝶によって識別され、高い価値が与えられている。これに次ぐのが一行の詩が書かれている札である。このゲームには三人が参加し、賭け金がある。得点の計算はかなり複雑であるが、含まれている着想は優美である。」[4]

この頃、アメリカに世界のカルタの熱心な研究者がいた。メイ・レンセラー(May King van Rensselaer、しばしばMrs. John King van Rensselaerと自称している)であり、彼女は1890年のアメリカ国立博物館会報に「日本からのプレイング・カード」(“Playing Cards from Japan”)という論文を発表し、またその内容を多少補正して1893年に公刊した『悪魔の絵本 プレイング・カードの歴史』(“The Devil’s Picture Books  A History of Playing-Cards”)に掲載した。レンセラーはこの論文で、自分で入手した花札を基にカードの構成や図像について詳説しているが、遊技法については「カシノ」というカードゲームに似ているという指摘程度でほとんど触れていないし、花札の歴史や社会におけるあり方、賭博としての禁止などにも言及していない。だが、レンセラーによってカルタ研究の世界に投じられた情報は極めて貴重なものがあった。さらに、レンセラーは、アメリカ国立博物館会報の「日本からのプレイング・カード」においても文末に十二枚のカードの写真を掲載しているし、『悪魔の絵本 プレイング・カードの歴史』においては四十八枚の花札のカードのカラー写真をすべてほぼ実寸大で掲載していて、これにより、世界のカルタの研究者は始めて東アジアの不思議な国にある不思議なカルタの全貌を知ることができたのである。日本の年号でいえば明治二十六年(1893)にこうして解禁直後の花札がカード研究の世界に始めて紹介され、記録されたことの意義はとてつもなく大きい。

なお、内容的には、日本に来ていなかったレンセラーであるので、「芒」の札の空に浮かぶのは太陽であるとするなどいくつかの勘違いがあり、また、当時は従来のカードから「八八花」用のカードへと図像が変わる変革期であったので、レンセラーが入手した花札は多数の異なる図像の花札の中での一実例であるにすぎなかったのだが、それを花札図像の普遍的な内容と説明するという誤りもある。ほんの一例だが、レンセラーは、花札では図像中にある数字の文字でそのカードの特定ができると書いているが、カードの表面に月順を示す数字を書き入れたのはこの時期の一時的な流行であって、後の「八八花札」になると消え去っている。

こうした、少ないサンプルから異文化を理解する時に不可避な誤解があるにしても、全体としてはレンセラーの指摘はほぼ正確に的を得ている。ここには、解禁直後で「八八花」流行直前の過渡期の花札の姿が正確に描かれているのである。なお、「日本からのプレイング・カード」における記述と『悪魔の絵本 プレイング・カードの歴史』における記述はほぼ同一であるが、添付されている花札の写真は大きく異なる。そして、前者の論文で記述する図像の説明と添付されている写真の図像とは一致しない点が多いが、それの説明と後者の著書に掲載された図像の写真はぴったりと合致している。つまり、レンセラーは、「日本からのプレイング・カード」を執筆した当時にすでに『悪魔の絵本 プレイング・カードの歴史』に掲載した方の和歌の付かない関東風の花札を手元に持っていて、それを使って執筆したのだが、どういう事情があったのかは分からないが、「日本からのプレイング・カード」ではもう一つ別の、和歌の入った関西系の花札の写真を添付したのである。

こうした事情を知ると理解できる点がいくつかある。たとえば、「日本からのプレイング・カード」で「柳」の札の図像を説明する中に、こんな文章がある。「この紋標の四番目のカードには、嵐の中、柳の木の下を走る男の、古風で面白い姿が描かれている。男は慌てていて両足の履物を脱落させている。男の頭部は黄色の大きな傘で覆われている。雷光が男の周囲を囲み、嵐の雨もよく描かれている。」。これは一読して明らかに、今でも越後花札に残っている、雨中を走る男の図像を説明している。だがここで理解が困難なのが「この男は、慌てていて両足の履物を脱落させている。」という文章である。このような指摘は聞いたことも読んだこともない。ところが『悪魔の絵本 プレイング・カードの歴史』の花札の図像を見ると、確かに走る男の姿が図像の下端よりも少し上に描かれていて、そこに生じた余白、男の足先から離れた場所に灰色の三角が二か所描かれている。これは他に同様の例がないこのカードに特有の不思議な描き方である。レンセラーがこれを「サンダルの脱落」と解釈したのは十分に理解できるところであり、私にも、他には解釈のしようがない。レンセラーは、このごく例外的な図像を花札の一般的なものと理解して紹介してしまったのであるが、その観察眼の鋭さに感じ入るところがある。


[1] 『再版神戸市史本編各説』●八六頁。村田誠治『神戸開港三十年史』下巻、開港三十年記念会、明治三十一年、(原書房、昭和四十七年)、六〇〇頁。

[2] W.E. Griffis “The Games and Sports of Japanese Children”, Transactions of the Asiatic Society of Japan. 1874, 昭和四十九年、一四〇頁。

[3] グリフィスはここで、東海道五十三次の道中双六をカルタ遊び一種として紹介しているが、説明も双六に関するものに終始していてカルタ遊びというのは誤解である。

[4] Basil Hall Chamberlain “ Things Japanene, Being Notes on valious subjects connected with Japan” 博聞本社、明治二十三年、二一頁。

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