三 空前の花札ブームの到来 (九)かるた制作、販売の近代化 明治二十年代(1887~96)に、子ども用のかるたが、「イロハかるた」であれ「百人一首かるた」であれ、成立して発展した根拠として、西欧の板紙が輸入され手広く普及し、国産化も始まったことが大きい。それまで、かるたに用いられていたのは、和紙であって、堅牢さに弱点があった。花札などは、和紙を貼り合わせて芯紙を作る際に、糊の中... 館長
三 空前の花札ブームの到来 (八)パーマーの八八花札の紹介 ちょうどこの時期に、日本に滞在していて、花札について本格的に研究したのがイギリス人のヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry Spencer Palmer)であった。パーマーは、1838年に軍人の家庭に生まれ、一八歳で王立士官学校に入学後、技術将校としての学習、修行に励み、1856年にイギリス陸軍の工兵中尉に任官して... 館長
三 空前の花札ブームの到来 (七)外国人の見た明治期日本のかるた文化 日本のかるた遊技は、当時滞在した外国人の興味も引いた。横浜や神戸などの外国人居留地は治外法権の地であって日本の警察権力は及ばず、その代りにあった居留地警察は西欧社会の常識で一般人の小規模な賭博行為には寛大であり、賭博はとても盛んであった。とくに横浜は、岩亀楼等の遊廓で花札が用いられて「横浜花」つまり「八八花」の発祥の地... 館長
三 空前の花札ブームの到来 (六)「武蔵野」の退場 明治二十年代(1887~96)は花札ブームに沸いた時期であるとともに、かるたの世界の全般で大きな変化があった。江戸時代のかるた文化を支えた教養色の強い「歌合せかるた」は衰退し、「源氏物語歌かるた」「伊勢物語歌かるた」「古今集歌かるた」「新古今集哥加留多」「自讃歌かるた」などはこの時期に社会的には終わりを迎えた。ただ「百... 館長
三 空前の花札ブームの到来 (五)司法官弄花事件とその衝撃 この時期に起きた衝撃的な事件が、現職の最高位の裁判官である大審院の判事たちが金銭を賭けて違法な花札賭博を行っていたと非難される司法官弄花事件であった。これは、そういう噂を耳にした大審院のある検事がそれを執拗に糾弾して画策し、それが新聞に漏れて明治二十五年(1892)四月三十日の『東京日日新聞』で「遂に世間の耳目を奪ふ能... 館長
三 空前の花札ブームの到来 (四)各層の社会への流行の拡散 明治時代の都会には、繁栄と裏腹に貧困も集積していて、貧民窟と呼ばれる地域も多数生まれ、そこでも賭博は活発に行われていた。櫻田文吾は明治二十六年(1893)に大我居士の筆名で『貧天地餓寒窟探撿記』を表してその状況を報告しているが、そこでは、「チーパー」賭博は詳細に紹介されているが花札には言及がない。松原岩五郎は同じく明治... 館長
三 空前の花札ブームの到来 (三)「八八花」遊技法の流行 上方屋・『花ふだの憲法』 花札販売の解禁後に大流行した遊技法が「八八花」である。これはもともと幕末からの対外輸出基地として繁栄した横浜の遊廓から始まった遊技法で、当初は「横浜花」とか「ラシャ綿花」とも呼ばれていた。これは、従来の「お花」と呼ばれていた遊技法にとって代わっていったのである。 この遊技法は、基本的には「めく... 館長
三 空前の花札ブームの到来 (二)花札小説の代表作、『滑稽小説花懺悔』 この時期のもっとも代表的な「花札小説」は東京日日新聞社社長で執筆家も兼ねていた福地源一郎の作品であった。彼は、福地櫻癡(桜痴)の筆名で明治二十三年(1890)に『滑稽小説花懺悔』を「やまと新聞」紙上で発表した。これは、当時の東京の上流社会の七人の花札好きの男たちが織りなす賭金が高額の花札勝負の有様を面白おかしく描いた小... 館長
三 空前の花札ブームの到来 (一)明治二十年代、花札の流行 「上方屋」前田喜兵衛の冒険が成功して花札の販売の合法性が確認されると、たちまちのうちに広く全国で花札の遊技が大流行した。もちろん、その背景には、それ以前の時期から人々の間ではこの遊技が密かに楽しまれていて、遊技法であるとか、カードの取り扱いとかに習熟している人が多かったという事情がある。この時期の大流行は、つまりは花札... 館長