明治二十年代(1887~96)に、子ども用のかるたが、「イロハかるた」であれ「百人一首かるた」であれ、成立して発展した根拠として、西欧の板紙が輸入され手広く普及し、国産化も始まったことが大きい。それまで、かるたに用いられていたのは、和紙であって、堅牢さに弱点があった。花札などは、和紙を貼り合わせて芯紙を作る際に、糊の中に砥粉(とのこ)などを混ぜて使用し、薄い漆喰のような堅牢なものにしている。当時の生産地であった京都では、「山科の砥粉」がよい素材とされていた。
かるたが、正月の家庭の団欒に用いる一過性の遊戯具であるうちは、その短い時期の使用に耐える強度があればよかったが、教材となって長い期間に用いられるとすれば、より堅牢なものであることが求められる。この難点を解決したのが、欧米から輸入された板紙、いわゆるボール紙の活用である。明治二十年代(1887~96)は、洋紙が普及して、ようやく子どもの遊戯用品にも使われるようになった時期である。かるたの世界では、早速それを取り入れて、さまざまに用いられた。
「イロハかるた」は、従来、高級品は桐などの木箱に納められ、安価なものは簡単な帯紙で包まれただけの状態で売られていた。関西ではさらに簡略で、一枚の紙に刷り出されたままの未裁断の状態で売られていて、買った者が手元にある間に合わせの和紙で裏打ちをして切り離して使うものが多い。そこにまず登場したのが、美麗な紙箱である。中身のかるたそのものは従来の和紙のものであったにしても、板紙製の紙箱に収められることで、格段に立派なものに見えて商品としての魅力が増した。それに次いだのが、芯紙に洋紙を使って堅牢さを高めたかるたの登場であり、さらに、洋紙に直接にかるたを印刷して裁断するようになった。
一方、「百人一首かるた」の場合は、従来から木箱に納めるものが多かったので、洋紙の使用は、かるた札そのものでの使用に始まった。洋紙の表紙(おもてがみ)に、一回り大きな和紙の裏紙を貼り合わせて、はみ出した裏紙の部分を折り返して貼る、所謂縁返し(へりかえし)の手法が用いられた。ところが、この時期に成立した子ども向けの「百人一首かるた」の場合は、かるた札は洋紙のものを裁断しただけであり、収納する箱も板紙製であった。つまり、明治時代の「百人一首かるた」は、若干の例外はあるが大人用は木箱入り、子ども用は紙箱入り、大人用は「縁返し(へりかえし)」、子ども用は「切りっ放し」という違いが認められることが多かった。
こうした用紙の変化に加えて、この時期は、印刷術の革新の時期でもあった。従来の、木版印刷のかるたは、機械木版印刷、石版印刷、銅版印刷などのものに変わっていった。顔料も、明治前期(1868~86)のどぎつい赤や紫の色は、有害顔料としてほかのものに変えられていったので、全体の色調は大きく変化した。この時期のかるたは、「イロハかるた」であっても「百人一首かるた」であっても、まったく新しい文化という印象が強い。
明治二十年代(1887~96)のかるたの近代化を支えた第三の契機は、西洋紙の生産の開始と印刷技術の変革であった。「絵合せかるた」や「歌合せかるた」では、伝統の制作法である和紙に木版印刷して手彩色ないし合羽摺りで加色し、「縁返し」の手法で完成させる方式に代えて、明治時代後期(1903~1912)には裏紙、芯紙を用いる「縁返し」の手法は維持するものの表紙(おもてがみ)は洋紙に機械印刷したものを用いる手法が採用され、大正時代(1912~26)にはさらに芯紙にボール紙を代用させる製法のものが出現した。さらに進んで、分厚いボール紙一枚に表面の図像や文字と裏面の模様を直接印刷して裁断する製法のものが登場して標準化した。収納箱についても、江戸時代は木箱であったものが家内工業の手作業でボール紙を貼り合わせて使う紙箱に代わるようになり、後には鋲止めするだけで貼り合わせの手間を省く簡略で安価な製法も使われた。
一方、「花札」やその他の賭博系のカルタでも、機械印刷の表紙やボール紙の芯地の採用が進んだが、この制作方法であると硬さや厚みは実現できるが重さが不足するので、芯地に錫の薄板を加えて重みを付ける「錫箔包」のカードが登場した。また、植民地となった朝鮮向けに、ボール紙に印刷して「切り放し」でカードにした安価な「朝鮮花」が制作されて移出されるようになった。
この方式で制作するカードは後に宗主国の日本本土でも使われるようになり、日本市場を狙ってトランプ制作技術を応用して制作して日本に輸出したヨーロッパ製の花札が現れた。明治三十二年(1899)の上方屋刊『花ふだの憲法』巻末の広告欄に「○舶來ゴム引花ふだ」の広告がある。「ゴム引の花ふだは先年獨逸國の製造所へ特約なし既に着荷の分は品切となりて製造に改良を加へ近日到着仕べく見込に付御購求あらんことを願上候」とあるので、このころすでに外国産のものが出回っていたと思われる。
このヨーロッパ製の花札はイギリス、ロンドン市のカルタ・ディーラーのカタログに掲載されたので購入しようと日本から注文したが、わずかの時間差で日本のカルタ屋の主人が現地で店を訪れて購入したので、ロンドンのディーラーからは、予約があると言ったのに強引に持っていかれたが阻止できなかったことを謝罪するとともに、その日本人カルタ屋が見捨てていった半端な残欠と、包装紙を送ってきた。資料的にはこちらのほうがとても貴重で、①当時、神戸市の外国人居留地百一番館に店を構えていたシモン・エバス(SIMON EVERS)商會がドイツに発注し、②ベルギー、トウルンハウ市のカルタ製作者によって「ゴム引き」で製造され、③「獨逸製」のラベルで包んで日本向けに出荷されたものが横浜港に到着し、④当初は「日本一手発賣元 土田天狗屋 大阪市南久宝寺町四丁目」で販売する予定であったのがどういうわけかキャンセルされて、代わって「大阪市御堂筋淡路町南エ入」の「カネ中 河合福勝堂」によって通関され、⑤上方屋などで販売された、という事情が見えてきた。これに対応するように、ベルギーのカルタ製造史の著作“The Turnhout Playing Card Industry 1826-1976”には、1890年以降に同地の代表的なカルタ製作者、Mesmaekers社が制作した日本向けの花札について記述がある。また、当時は、「カネ中」の屋号は東京の「中方屋」のものであり、「中方屋」は「河合福勝堂」の大市場の東京での販売を担当した支店ないし支社であったのかとも思われる。なお、このヨーロッパ製の花札は、当然であるが、トランプの製造ラインで制作されたものであり、洋紙に機械印刷されて切りっぱなしで仕上げられている。ゴム塗りは滑りをよくするためのもので、札に多少の反りを入れるなど、日本の花札に負けない品質を目指していたことが理解できる。この「ゴム引き」という言葉は、明治二十年代(1887~96)に高級な外国製のトランプのシンボルとして使われ、好評であったのか、大正年間(1912~26)に、上海に支店のあったイギリスのカルタ屋であるユニバーサル社と提携した大阪のユニバーサル社の切りっぱなしの商品にも、「萬年花」や「護謨(ごむ)花」があり、高品質と評価されていた。