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(二)「天下一」「菊一」のカルタ

まめカルタ
まめカルタ(岸本文庫蔵、『うんすんかるた』)

ところで、山口吉郎兵衛『うんすんかるた』に「 岸本文庫蔵オウル紋四十枚カルタ版木複製 」が紹介されている。それの「オウルの四」の中央に「菊一」の図像と「極上仕入」の文字があり、この札は制作者のカルタ屋を表記する箇所でもあるので、「菊一」がカルタ屋の屋号であり「菊一極上仕入れ」と読める。

この「岸本文庫蔵オウル紋四十枚カルタ版木」にはさらに検討するべき史料価値がある。山口はこの版木を「図様から時代を推定すれば相当古く享保頃かと思われる」と鑑定しているが、「オウルの四」の札四枚のうちで一枚だけに「十二花堂」とある。つまりこれは、元来は「菊一」が制作していた賭博系のカルタ札であり、その図像を後世の十二花堂が引き継いだものである。また、この版木では、左から右に、「一」「二」「三」‥‥「九」「ウマ」が横並びに彫られている。すでに見たように、江戸時代の日本では、版木でカルタ札を並べて彫るときには、縦に「一」「二」「三」あるいは「九」「八」「七」としたのであり、カルタ札を横並び、それも左から右に並べるのは、欧米の数字の並べ方であり、従ってこの版木は明治時代に制作されたものと考えられる。実際、「十二花堂」は花札が有力になった明治中期に大阪市道頓堀新戎橋に所在したカルタ屋である。図像は古いものが後に明治年間に再度版木に彫られたということである。

興味深いことに、これは「オウル」紋標を四度繰り返すマメ札系統の四十枚一組のカルタであるが、「一」は四枚ともめくりカルタ系の「オウルの一」であり、一枚が「ハウの一」に代えられるという工夫がない。それだけ古いということである。そして、図像の左上、本来は「オウル」紋標が来るはずの箇所に丸で囲まれた「天下一」の文字がある。この「天下一」は、織田信長が畿内でもっとも優れた手工業者、芸能者に与えた独占的な称号であり、後に豊臣政権に引き継がれ、広く活用されたが、徳川の世になると軽視され、ついに江戸時代前期(1652~1704)に使用が禁止された[1]。つまり、カルタ札に「天下一」とあるのは、そのカルタの図像が、江戸時代初期ないし遅くとも江戸時代前期(1652~1704)までに成立していたことを示すのである。さらに、菊花の上に一の文字がある「菊一」の屋号とは、朝廷から一番のカルタ屋と認められたことを暗示している。岸本文庫蔵のカルタの画像はこのようにとても古いものである。なお、この「天下一」に近いのが、九州北部の地方札「大二」の古い「オウルの三」の札に残されている「本家天一」の文字である。「オウルの四」には別に「丸十」の屋号が入っているので「天一」は意味が取りにくい言葉であるが、「天下一」が「天一」になったのだとすると、「天下一」の本家を継いだ「丸十」カルタ屋という趣旨で意味が通る。

九度山
九度山(昭和後期、任天堂)

一方、「菊一」の屋号を「岸本文庫蔵オウル紋四十枚カルタ版木」と共有するのが、山陰地方の地方札、九度山である。九度山札は、一組四十八枚で「オウル」紋が四度繰り返されるまめカルタの賭博札であり、任天堂によって昭和後期(1945~89)まで残された四十八枚のタイプのものとしては唯一のまめカルタ札である。この九度山札は「オウルの二」の上部に「菊一」がある。「オウルの三」には、「大二」の「本家天一」と同じ場所に「本家丸福製」と任天堂の屋号が書かれていて、もはや本当の本家が分からないし、「オウルの四」では制作者名が「任天堂製造」になっていて、ここでも本来の制作者が分からないが、わずかに「オウルの四」の中央のカルタ屋の屋号の入る箇所に菱形が残されている。「任天堂製造」であればここには「丸福」の屋号が来るべき場所であるが、元々の版木図像の制作者であるカルタ屋の屋号を消し忘れたのであろう。これを仮に「菱屋(仮称)」と呼べば、「九度山」は、元来は「菊一」のカルタで、それが点々として「菱屋(仮称)」で作るようになり、最終的に明治年間中期(1887~1902)以降は任天堂が引き受けて制作したという経緯になる。

「岸本文庫蔵オウル紋四十枚カルタ版木」と九度山札が共有する特徴はもう一点ある。それが「オウル」の紋標の描き方である。両者は丸い紋標の外縁の内側にギザギザの模様を入れている。そして、「オウルの七」では左右両列の紋標ではこれを簡略化して二重円に、同じく「オウルの九」では中央列の紋標を簡略に描いている。これは、「オウルの七」「オウルの八」「オウルの九」の図像が似ているので遊技の際に一目見て違いが分かるようにする工夫であろう。この、「オウル」紋標のギザギザ模様は、江戸時代のめくりカルタの地方札で、鳥取県の地域で使われた「金極 」にもあり、一部が岩手県の「 黒札 」にも残り、さらに、大きく崩れながら四国地方の目札にも残っている。

なお、黒札の場合、その祖型は京都「間之町五条下ル(又は五条通)」の「鶴屋六兵衛」のめくりカルタである。この「鶴屋」のめくりカルタで幕末期(1854~68)と思われるものが残っている。そこにある、「イスの二」の上部中央の鶴の図像、「オウルの二」の上部中央の同じく鶴の図像、ギザギザのあるオウルの紋標、そして何よりも「オウルの四」の中央にある「間之町五条通本つるや六兵衛」の文字などが岩手県花巻市で制作された黒札に受け継がれている。そして、「コップの六」に花巻現地でのカルタ屋の名前が入る。また、鶴屋のカルタでは「ハウの二」の下部中央に「安弘」という鶴屋の主人と思われる者の名前があるが、黒札では、当初は「安弘」であったものの後に花巻現地の 吉見屋が 「吉見」に変え、それがそのまま今日の任天堂製のものにまで踏襲されている。この鶴屋のめくりカルタは黒札に似ているが、「ハウの二」の下部中央に黒札にはある青海波の模様がない。私はこの青海波模様の有無を京都製か、現地花巻製かの区別の基準点としている。話がずれたが、オウル紋標のギザギザは大坂、京都の双方に伝わっていたものと考えられる。

次に「岸本文庫蔵オウル紋四十枚カルタ版木」と目札の関係であるが、もう一点重要な点が共有されている。まめカルタの賭博カルタ札では、小丸札でも大二札でも、「十」の絵札には「ソウタ」の札の図像を使うのであるが、目札だけは、なぜか「ウマ」の図像を使っている。そしてこの固有の特徴が、「岸本文庫蔵オウル紋四十枚カルタ版木」にも現れているのである。この点を重視して分類すれば、「岸本文庫蔵オウル紋四十枚カルタ版木」は古い目札ということになり、逆に目札は、従って九度山は、江戸時代前期までに成立していたということになる。


[1] 高木昭作「『天下一』について」『職人』(近世風俗図譜第十二巻)、小学館、昭和五十八年、一一七頁。

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