岩手県盛岡市の岩手県立図書館に、岩手の地方史研究者で、昭和三年(1928)に発行された『南部叢書』[1]、昭和二十六年(1951)に刊行された『盛岡市史』[2]の編著者である故太田孝太郎が残した資料『張込帳』があり、その中に旧南部藩領で制作された地方札、黒札の画像五枚と、南部花札(花巻花)の画像五枚がある。地方カルタ史の史料が僅少ななかでは、いずれもきわめて貴重な歴史史料であり、この史料を活用した南部地方のカルタ文化史の進展が期待できる。

太田孝太郎の略歴については、その没後に刊行された『南部叢書』復刻版の奥付に付された編著者略歴を引用して紹介に代えよう。 

太田孝太郎
太田孝太郎

<南部叢書刊行会代表者・太田孝太郎略歴>明治十四年生まれ、明治三十九年早稲田大学政治経済学科卒業、盛岡銀行頭取、岩手日報社社長を歴任、郷土誌、民俗学、古印、金石学等に精通し、『夢庵蔵印』八冊、『楓園集古印譜』十二冊、『漢魏六朝官印考』十二冊、『岩手県金石志』、『南部銭譜』等多数の著書をあらわし、また盛岡市史編集委員として『盛岡市史』を刊行。これらの功績により、昭和三十五年文部省より文化功労者として表彰さる。同四十年勲四等瑞宝章をうける。昭和四十二年八十六才で死す。同年従五位をうける。 

太田は、地方史研究者として、南部地域のカルタ遊技に関心があったようである。太田が編集した『盛岡市史』には次の一文がある。 

一六 黒札 花札 
 盛岡佐々木と花巻鶴田屋、土澤の吉見で作られた。いま版木がのこされている。一尺四五寸と八寸二三分のもので札は四十八枚、異国情緒の饒(ゆた)かなものである。いつはじまつたかは明らかでないが、花巻がさきで盛岡はならつたものであろう。「風景歌仙」に「黒札を貰ふた夜からよく眠る鼎起して飯を勸める」。鼎は家内にもぢつたものであろう。 
 花札はおもに花巻の鶴田屋で作られた。地方特有のものではない。今も行われている。 

日本の地方史研究において、自治体の教育員会が作成する「地方志」の書籍は、民俗学を学習した職員が担当するものが多い。この、諸外国における地方史研究に代る日本に独特の民俗学という学芸においては、学術としての基礎を築いた柳田國男が、「常民」、つまり、親の教えを守り、結婚して子どもを設け、家族そろって朝早く起きて、一日を農業に従事して勤勉に労働し、家では先祖を敬い、その祭祀を怠らず、地域に伝来する季節ごとの行事を継承して生活する者をモデルとして評価しており、反面、その基本形から逸脱する怠惰で娯楽にのめり込むような者を軽蔑し、軽視するところがあり、従って、地域の民俗学的な情報収集においても、賭博の遊技は常民の文化からすれば取るに足りない逸脱とされ、調査項目から外されて無視されるところがあった。したがって、柳田を祖とする民俗学関係者の編集、執筆する「地方志」には、賭博系の遊技関連のデータは掲載されない。この種の「地方志」には細大漏らさぬ資料編が付くことが多く、そこに掲載される江戸時代や明治時代の文献記録史料には、しばしば同時代の賭博遊技に関する記述が含まれているが、そういう場合でも、「地方志」の本編ではそれは無視されるのが常である。日本の地方史には賭博遊技関連の記述は抜けている。したがって、天正カルタや花札は、その遊技や遊具の制作がどれほど盛んであったとしても、地方史からは削除されている。 

そういう中で、太田が編集、執筆した『盛岡市史』には、こういう賭博遊技系の記述がある。太田が民俗学の偏見に害されない自立した地方史研究者であったことが良く示されている。全国各地で、その地方の地方札、ローカルなカルタ遊技が記録もなく消え去って行った中で、賭博系の遊技にもその地方の歴史上の価値を認めて、これだけの記述を残した太田は慧眼の持ち主であったと思う。そして、こういう太田であればこそ、残存するカルタ版木に注目し、それの版木骨刷りを何枚も作成して残したのであろう。後進のカルタ史研究者としては感謝するところが大きい。 

『南部叢書』は非常に優れた地方史の文献史料であり、もう四十年ほど以前になるが、真剣に読ませてもらった。そしてとくに太田が発掘し、校訂を施して収録した「遠野古事記」 [3] は、遠野の風俗・社会史の実見を記録したものとして興味深く接した。同書は元禄元年(1688)生まれの筆者、宇夫方廣隆が寶暦十三年(1763)に書いたものであるが、その中に、八戸直榮(なおひで)が領主であった当時の、南部でのカルタ遊技の流入、流行の様子が描かれている。以下、簡単に現代語訳にして紹介し、参考に供したい。 

八戸直榮(なおひで)様が領主であった安土桃山時代には、碁將基などの慰安はまだ南部には届いていなかったが、「せい」というかるた博奕が流行し、領主の直榮様ご自身も近習らとしばしばこれに耽った。 
その頃、大町の清助の曽祖父、人首平右衛門は、当時は盛岡の家中で直参であったのだが、この賭けに勝って麻の上下の衣服をいただいたということで、孫の平右衛門の代になっても、「九曜の御紋付古御肩衣」を家宝として持ち続けているのを、筆者は弱年の節に実見したことがある。 
昔も今も、上を真似るのが下の風儀であり、盛岡の御屋敷、遠野の御家中、町方でともどもにこの慰安が行われた。その後、天下が統一され、賭博の禁止が仰せ出されたが、カルタ札の商売はお構いなしということであったので、町中のどの店先にも売り出されていた。 
下々は申すまでもなく、藩士の宿舎でもこの慰安の寄合があるのを、筆者は弱年の頃まで見たことがある。なおまた、神社の祭礼の場では、あちらこちらに屯して人目を憚(はばか)ることもなく声高に騒ぐカルタ遊技の寄合があったのだが、祭礼は賑やかにありたいという思召しであろうか、盛岡でも遠野でも、警護の衆も見て見ぬふりで追い払う下知もなかった。 
その頃は、「せい」という博奕はなく、「加宇」という博奕であったそうである。カルタ札を蒔くときに人目をくらます奇妙の技の上手な者がいて、だいぶ銭を取られ、衣服をはぎ取られた者が多かったという風説を聞いたこともある。 
元禄の末の頃、源兵衛という博奕の筒取が他領からやってきて骰子博奕を打ち始めた頃から、祭礼の場でのカルタ博奕は見かけなくなった。 
これらの慰安の行いに至るまで、時代の風俗は様々に変わるものである。 

この文献は、カルタ史の研究にとってはとても大きな意味がある。ここにいう八戸直榮(なおひで)は、『遠野市史』[4]によると、次のような人物である。

第十九代直栄は彦次郎といい、弾正と号した。母な勝義の女(娘)。政義の子で、器量があって信直これを愛し、女を嫁にした。天正十八年(一五九〇年)秀吉の小田原攻め(北条氏政父子攻略)の時、信義に従って参陣し、また翌年九戸の乱にも信義に従って軍忠を励んだ。傍ら和歌をよみ、文武を兼ねたが、惜しいことに短命で、父に先立ち文禄四年八月十七日二十五歳で没した。法諱は鶴山(かくざん)意公。 

したがって、南部におけるカルタ遊技、「せい」の流行が直榮が当主であった時期に始まったとすると、それは直榮が死去した文禄四年(1595)以前のできごとということになる。『遠野古事記』は元禄元年(1688)生まれの筆者、宇夫方廣隆が寶暦十三年(1763)に書いたものであるから、文禄年間とは一世紀以上の間隔があり、直接の目撃証言ではないが、宇夫方は、直榮とのカルタの勝負に勝ってせしめた直榮の紋のついた衣服を家宝とする友人の藩士の家でそれを実見してこの記事を書いており、主家に関わる内容でもあるからあまり軽率には書かないであろうし、記載の内容についてはある程度信ぴょう性がある。そうすると、直榮は、秀吉の軍勢に加わって参陣しているのであり、そこで海外から伝来したばかりのカルタ遊技「せい」に触れて夢中になり、その遊技とカルタ札を南部に持ち帰ってきたという展開が想定されるところ、信榮は秀吉が朝鮮に侵攻した文禄慶長の役に参加しているから、カルタの遊技は肥前、名護屋の陣中で憶えたということになる。 

従来のカルタ史研究では、私もその一人だが、日本で最も早いカルタの記録は、慶長二年(1597)の長曾我部元親式目でのカルタ遊技の禁止であり、それは文禄慶長の役で名護屋に出陣した際に憶えたものと考えられてきた。ところが、『遠野古事記』の記録は、これよりも二年早い文禄四年(1595)を下限として、それ以前から、遠く奥州の盛岡や遠野でカルタ遊技の「せい」が広く遊ばれていたという。これが事実だとすると、日本のカルタ史は書き換えられねばならない。太田孝太郎が採録した史料は、このように重要な価値を持っていたのである。ただし、長曾我部元親式目は慶長年間の記録が残っているのに対して、八戸直榮の逸話は元禄年間生まれのものが聞いた伝聞を宝暦年間に書き留めたのであり、紋付衣装という物証があっても、その時間差、間接的な伝聞性が弱点になっている。そこで、私も今のところは長曾我部元親式目を確証されたカルタ史上最古の歴史史料として扱っている。 

さて、岩手県立図書館によると、同館には太田から寄贈された文書等や一般書を含めて約二千四百点、没後の昭和四十二年(1967)に妻・貞より寄贈された拓本を中心とする資料約二百四十点がある。『張込帳』はその中の一点で、資料の抄録には、「護符、絵馬、暦、双六、法経、紋の版画のほか、下北、和賀、平泉、盛岡、岩手山、早池山の版画絵図による案内、碑文の張込帳。」とある。 

太田が蒐集した黒札及び南部花札(花巻花)の版木骨刷りは、黒札が五点、花札が五点であり、その一部は、平成二十七年(2015)の同館の企画展示「かるた 今むかし」に出品された。この企画展の展示目録には、「かるたの歴史 4〔張込帳〕より 天正カルタ」と、「かるたの歴史 6〔張込帳〕より 花札」とある。私は、この企画展の広報を通じてこの史料の存在を知った。同館に問い合わせて、資料のコピーを分けてもらえた。現在のところ、これが私とこの史料のまだか細い関係である。資料収集の経緯などの記録も未見である。太田が自ら個々に蒐集したものなのか、誰か他の人間が蒐集したものを一括して入手したものなのかはとくに関心があり、実見できる機会の到来を心待ちしている。 

この件で追記がある。私は、令和元年(2019)十一月に岩手県盛岡市を訪れ、岩手県立図書館で太田の「張込帳」を実際に検証した。古びた和紙に刷られたもので、カルタ屋の職人の手慣れた刷りの技ではなく、いわば素人の研究者による刷りであることが分かった。黒札の版木骨刷りの中に、一部分を切り落とされて他の用途に転用されたものから刷り出したものがあり、カルタ版木としては現役の版木のものではないことも分かった。おそらく、廃業後のカルタ屋を太田か他の研究者が訪れて、自身で刷り出したのであろう。歴史資料を見る時はいつものことであるが、そういう現場に立ち会っているようで、心のときめきを感じながらの作業であった。

ただ、東京から、遠路、岩手まで行くので、もう少し史料類が見つからないかと欲張って、岩手県立博物館、もりおか町家物語館、花巻市立博物館、遠野市立博物館、北上市立博物館、青森県三沢市立博物館、碧祥寺博物館などに問い合わせ、あるいは訪問したが、いずれも全くはかばかしくなかった。かつて黒札や花巻花札の版木を所蔵していることで東京の研究者の間でも話題になった碧祥寺博物館でさえ、「はあ~、それって何ですか。そのようなものはありませんし、聞いたこともありません。」であった。また、盛岡市や花巻市の小間物屋や古物商もこれを知らず、書店や玩具店でも知識ゼロであった。「はあ~」を一日中浴びせかけられていたことになる。ただ、そうしたなかで、太田孝太郎の関連史料を常設展で展示している「盛岡市先人記念館」は、太田に関する資料はなかったものの、南部カルタについては興味を示してくれており、わずかな希望の種を得た思いである。


[1] 南部叢書刊行會編『南部叢書』、南部叢書刊行會、昭和三年。復刻版は、『南部叢書』、歴史図書社、昭和四十六年。

[2] 盛岡市史編纂委員会右代表太田孝太郎編『盛岡市史』全十二分冊、盛岡市役所、昭和二十六年。

[3] 「遠野古事記」、前引『南部叢書』第四冊、三六四頁。

[4] 遠野市史編修委員会編『遠野市史』第二巻、遠野市、昭和五十年、六三頁。


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