その後、吉海は「歌かるた伊勢市発祥説」を伊勢市以外の場所では開陳することがなかったが、平成二十年(2008)の自著『百人一首の世界』では、歌かるた伊勢起源説を「こういったまことしやかな説明によって、歌かるたの起源が捏造されたと考えているのです」[1]と切り捨てた。驚くべき転向、大幅な改説である。ただ、この説になお未練があったのか、同書では、巻末の注という目立たない場所で「仮に歌かるたの起源が貝覆に求められるのであれば、その貝覆の出発点である伊勢(三重県)は、もう一つの歌かるた発祥の地ということになります」と書いている。「仮に」と貝覆起源説を唱える主体をあいまいにしているが、そういっていたのは他ならぬ吉海自身である。「貝覆の出発点」とは面白い修辞で、前後の文脈で推定される文意は「貝覆」という遊技の「発祥の地」という意味であるが、そう書けば史実に反すると批判されるから、「発祥の地」ではなく「出発点」と書き、ここは貝覆の原材料の蛤貝が生息している場所という意味で、それが採取され、京都に運ばれ、貝覆の用具に加工され、京都の人々によって優雅に遊ばれたという意味合いでの貝覆の用具素材の生息地から遊技が行われた地までの経緯の出発点として書いたもので何が誤りかという抗弁ができる。この著書の本文では伊勢を、伊勢神宮のある伊勢市の意味合いで使っていたのに、ここでは伊勢(三重県)と広げて表現して桑名も混ぜ込んでいる。

「もう一つ」の「歌かるた」発祥の地というのも驚くべき表現で、吉海は、もともとは、伊勢は海外から伝来した「カルタ」を制作した福岡県大牟田市三池地区と並ぶもう一つの「かるた」の発祥の地であると指摘していたはずなのに、いつの間にか、もう一つの「歌かるた」発祥の地とすり替えられている。この吉海の理解では、歌かるた発祥の地が二つあったことになる。旧通説では歌合せかるたの発祥の地としては京都が想定されていたが、最近の研究では福岡県内の黒田藩の城中と想定されている。吉海がこのどちらを考えていたのかは分からないが、どちらであるにせよ、もう一つの発祥の地が三重県だと言っていることになる。なんとも微妙な主張のすり替えが行われており、要するに、何が何だか論理構成が理解できない文章が続くのであって、吉海の立場は右往左往している。

右往左往していると言えば、平成二十五年(2013)刊の吉海直人監修の『百人一首への招待』[2]でも、吉海は、「しうかく院起源説」は無視して一切言及せずに、貝覆起源説の周辺を半ば疑いつつも右往左往している。また、平成二十八年(2016)刊の『百人一首の正体』[3]は、平成十年(1998)刊の『百人一首への招待』の改訂版であり、歌合せかるたの発祥については旧著では貝覆が賭博カルタと融合して歌合せかるたが誕生したとしていたものを、貝覆から出たのは「絵合かるた」で「そこから次に‥‥歌かるたが誕生したと言われています」と微妙な修正を加えている。貝覆の後継が「絵合せかるた」だというのは私が唱えている説であるが、「言われています」では世間一般でこのように言われているようで、したがって改説してそれに従っても、江橋の説に屈したのではないといいたげである。江橋説に屈したとだけは言いたくないのが吉海のプライドなのであろうか。

それはさておき、「しうかく院」起源説については相変わらず無視で、ただ、私の主張の結論である初期の歌合せかるたは正方形に近いという部分をつまみ食いして、独自に論拠を示すことなくそうかもしれないというだけであり、結局、貝覆起源説の域を出ていないのであって、この起源説は自己崩壊を遂げているように見える。


[1] 吉海直人『百人一首かるたの世界』、新典社、平成二十年、三七頁。

[2] 『別冊太陽 百人一首への招待』、平凡社、平成二十五年。

[3] 吉海直人『百人一首の正体』角川ソフィア文庫、角川書店、平成二十八年。

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