骨牌税が導入された明治三十五年(1902)から第二次大戦の敗戦の昭和二十年(1945)までの約半世紀の間は、賭博遊技カルタの歴史の中で最も明るい時代であった。それの制作も、販売も、使用も公認されて合法のものとされ、広く人々に開放された。この時期を賭博遊技カルタの歴史の最盛期と呼ぶべきなのかもしれない。

賭博遊技カルタ制作業界を見ておこう。この時期の業界についても史料は少ないが、骨牌税法が施行された関係でいくつかの数字を眼にすることができる。かつては、この面でも、事実に基づかない業界伝説や自店の自慢話があって実態を見にくくしていたが、ここではそれをオウム鳥のように復唱することを避けて、客観的に説明できることに集中しておこう。

骨牌税の導入で全国のカルタ屋が大打撃を受けて廃業が続いたことはすでに述べた。残されたカルタ屋は、骨牌税による製造免許を得て免許税を納入する者に限られたが、大阪税務監督局の年次統計書を見れば、製造免許を得た者の数は、花札、「めくりカルタ」、トランプなどの製造業を合せて京都で十軒、大阪で十軒、それに岩手県、兵庫県(淡路島)、岡山県、広島県、徳島県に各々一、二軒の製作業者があるだけで、あとはにわかに立ち上げてにわかに消滅している。こうした泡沫カルタ屋の実態は不明だが、営業開始が比較的に容易だったトランプのメーカーではないかと推測される。これらのカルタ屋が生産する数は年々の変動があるが、納税額から見て、明治期(1902~12)は四、五十万組、大正期(1912~26)は百万組を超えて最盛期の大正後期(1919~26)には二百万組、昭和前期(1926~45)に入ってからは、又百万組程度であった。このうち京都が七十%程度、大阪が三十%程度を占めていた。

こうした業界の構成は、その後も大きな変化なしに引き継がれていった。明治末期(1907~12)から大正期(1912~26)にかけて、業者の数はさほど増えていない。生産額は統計がないので分らないが、製作個数と納税額は分る。京都、大阪という突出した二大生産地を管轄にする大阪税務監督局でいえば、大正二年(1913)の製作個数は約四十万組、納税額が八万円であり、大正中期(1916~1910)には、百五十万組から二百万組超えにまで拡大して、その後、昭和初期(1926~30)の不景気の時期になるとまた百万組程度に戻っている。税収は、増税で増加していたが。

この期間に製作された花札の大部分は「八八花」用のカードで、カルタ屋ごとに少し図像が違うところがあるが、それも大同小異で、ほぼ同じものを制作していたと言える。そして、京都では、傷ひとつないように仕上げないといけない裏紙作りの職人とか、仕上がりの厚みを計算しつつ芯紙を貼り合わせて作る生地師の職人とか、表紙にカッパ摺りで彩色を施す色差しの職人とか、裏紙のはみ出た部分で縁返しをする縁返しの職人とか、カルタの手作りの手順に沿った職人たちが近場に居住していて、各々のカルタ屋が共通してこの職人の集団の中から選んで注文を出すのであるから、できあがったカルタの出来栄え、品質には共通するものがある。そういう中であるが、京都の「日本骨牌製造」の花札は評判が良くて、「大隊長」というブランドがこの時期のベストな花札であったという事情はすでに述べた。

なお、花札の場合、注文が一度に殺到したり、その他何かの不都合が生じたりした時には、他所のカルタ屋で制作した花札を購入して自分の店の包装紙で包んで出荷することがよくあった。購入するカルタ屋と卸すカルタ屋の関係はさまざまであるが、ここでは一括して外注方式と呼んでおこう。購入した花札を使用しようとして封を切ったら他所のブランド名のものが出てくるというのは通常の商品では起こりえないことであるが、花札の世界では共通の職人が作っていることもあってカルタ屋の間では製品の品質にはさほどの違いはなく、むしろ同じカルタ屋の製品の間でも、職人が作ってきた品物を検品して選んでさまざまなブランド名で最高級品、上級品、中級品、下級品と区分して別のラベルで販売していたのであるから、そちらの品質差の方が大きい。購入者は、「日本骨牌製造」や「任天堂」のブランド名の付いた花札が出てくれば、むしろ包装紙のマイナーなカルタ屋の物よりも嬉しがるので苦情にはならない場合も多く、これも商売の方式として成立するのであるが、実際には、名前の通った他社の中級品や下級品を購入して、自社の高級品の包装紙で包んで売ってしまえば、やはり製品の信頼性に問題は残る。

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