北村季吟(江戸時代前期)
北村季吟(江戸時代前期)

これに代えて幕府が行ったのが、天皇の有する文化的な権威を幕府に吸収し、文化的な意味での首都を京都から江戸に移す文治政治の展開である。文化面での主導権の奪取は着実に進み、儒学での林羅山、仏教での崇伝や天海、輪王寺宮(日光御門主)、歌学での細川幽斎や北村季吟らによって、文化の中心が京都から江戸に移され、幕府の文化政策での覇権が強化された。その絵画文化面での現れが、後水尾朝廷と親密な御所繪所預の土佐派の絵師から幕府御用絵師の江戸狩野派に大和絵の主導権を移すことにあった。

幕府による文化政策の支配を強力に進めたのは、四代将軍徳川家綱と保科正之の政権であったが、完成させたのは五代将軍徳川綱吉と股肱の臣の柳沢吉保である。いうまでもなく綱吉と吉保は、元禄年間(1688~1704)に文治政治を推し進め、文化の力で天下を治めようとした。そこに動員されたのが、唐、天竺、大和の文化であり、中でも唐の儒教、天竺の仏教、大和の歌学が軸となった。儒教の教えで上の者に従う秩序の感覚を知り、仏教の教えで安心立命の境地を知り、歌道の教えで上に立つ者の文化的な優越性を学びそれに従うことを知る。社会がそれを知るとき、将軍を頂点とする上下の秩序が定まり、平和と安定と調和が満たされる天下泰平の世が実現される。こういう世の中で、唐、天竺、大和の三大倫理、人の道を一身に体現しているのが将軍である。

その将軍に反抗し、その治世を否定しようとするのは、将軍が保有する強大な軍事力への反逆であって愚かなだけでなく、将軍が体現している偉大な文化への反逆である。それは世界的な価値のある文明に反逆することなのであり、その罪科は、軍事的な反逆などでは比べ物にならないほどに悪質な人類の文明への反逆である。この様な観念を世に広めることで、大名家などの反逆を未然に防止して徳川家の支配の永続を図る。これが将軍家の文治政策の眼目である。

それを具象化するものとして、幕府が存在する江戸城の周辺には、北東に湯島聖堂が置かれて儒教の力で江戸城を守り、北西に護国寺が置かれて仏教の力で江戸城を守り、そして真北に柳沢吉保によって「和歌の庭園」六義園が作られて歌学の力で江戸城を守る。この配置によって、江戸に住む人々や参勤交代でやってくる大名家やその武士たちに幕府の威光を思い知らせることができる。

湯島聖堂(上:大成殿(昭和十年)、  下:内部・中央は孔子像)
湯島聖堂(上:大成殿(昭和十年)、
下:内部・中央は孔子像)
護国寺(本堂、元禄十年)
護国寺(本堂、元禄十年)
六義園(庭園、元禄十五年より)
六義園(庭園、元禄十五年より)

六義園の作庭に際しては、当時の歌学の最高権威であり、幕府の歌学方に任命された北村季吟の指導のもとで、柳沢吉保自身のこだわりも十分に盛り込んで、「万葉集」と「古今和歌集」に基づく歌道のエッセンスが凝縮して配置された。島内景二がいうように「和歌は平和を作り出し、維持するための武器であり、天下泰平を謳われた元禄の御代、すなわち五代将軍徳川綱吉の治世を守る手段だったのである」[1]。つまりこの時和歌は、京都で王朝を守護する文化から、江戸で幕府を守護する文化へとスタンスを変えたのである。

実際に、元禄年間(1688~1704)は、諸文化の中心が上方から江戸に移った時期であった。人も物資も情報も江戸に集結するようになり、江戸の衣も食も華美に発達し、六義園をはじめ、江戸の各地で歌会が催され、能や狂言の舞台が営まれ、王朝の物語の講義が進められる。漢学者も高位の仏僧も、そして和歌の達人も優れた絵師も各種の工芸の名工も江戸に集まるようになる。音曲や芸能の名人も蝟集する。それは、京都で幕府の威圧に抵抗して芸能の文化を以て王朝の権威を守っていた後水尾朝廷の時期とは真逆で、芸能の文化は幕府がその支配下にいる学者、文化人、芸術家の力で、京都の朝廷とその周囲にいる者たちの文化を凌駕し、支配するものになったことの表れである。そういう大きな流れの一環として、歌人絵の世界での江戸文化の覇権が確立する。江戸狩野派の勝利には、そういう政治的なバックグラウンドがある[2]


[1] 島内景二「六義園から歌を見る―日本文化の力」錦仁編『日本人はなぜ、五七五七七の歌を愛してきたのか』、笠間書院、平成二十八年、一三四頁。

[2] 松島仁『徳川将軍権力と狩野派絵画 徳川王権の樹立と王朝絵画の創出』、ブリッケ、平成二十三年、同『権力の肖像 狩野派絵画と天下人』、ブリッケ、平成三十年は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる、幕府の文化面での覇権の確立とそれに仕えた江戸狩野派を明らかにしている。

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