東京でも江戸の社会からの変化は緩慢であった。明治初期(1868~77)のいろはかるた(題名、作者不明)を見てみると、男性では断髪は実現されているがなお丁髷に和服姿が多く、女性では旧来の髪型、和服姿である。わずかに「ら」の絵札が洋服に帽子で、「む」の札が散切り頭の書生か壮士っぽい男であるあたりに江戸時代にはありえない新時代の息吹がわずかに感じられる程度である。この時期には、犬棒いろはかるたが盛んに制作されたが、そこでも変化は緩慢であった。ここで「そ」の絵札に「慶應四年正月・請盡双紙」とあるのでこの年に制作されたかるたであろうと思われるものと比較すると、明治初期、前期(1868~87)のいろはかるたが江戸のかるた文化を踏襲していることが分かる。

赤犬棒かるた③(制作者不明、慶應四年)
赤犬棒かるた③(制作者不明、慶應四年)
「いろはかるた」③ (制作者不明、明治初年)
「いろはかるた」③
(制作者不明、明治初年)
赤犬棒かるた③(制作者不明、慶應四年)
赤犬棒かるた③(制作者不明、慶應四年)
「いろはかるた」② (制作者不明、明治初年)
「いろはかるた」②
(制作者不明、明治初年)
赤犬棒かるた①(制作者不明、慶應四年)
赤犬棒かるた①(制作者不明、慶應四年)
「いろはかるた」① (制作者不明、明治初年)
「いろはかるた」①
(制作者不明、明治初年)
「犬棒カルタ」柄  (「江戸の花色の立贔屓」 豊国画 伊勢屋藤吉板、文久三年)
「犬棒カルタ」柄
(「江戸の花色の立贔屓」 豊国画
伊勢屋藤吉板、文久三年)

しかし、明治初期のいろはかるたをよく見ると、少しずつ新時代が浸透してくるさまも見える。何よりも特徴的なのは「赤犬棒いろはかるた」の成立である。江戸のいろはかるたでは、もともとは「い」の絵札も他の札を同じ地色であった。それが、一組を紙ひもでくるんで売り出すときに一番上部に置かれる「い」の絵札を赤く塗るようになった。ここに掲示した慶應四年(1868)の犬棒かるたはすでに「赤犬棒いろはかるた」であるが、すでに5-3で検討した幕末期の「いろはかるた雙六」はいずれも「振出し」の「い」のコマは赤くないし、文久三年(1863)の歌舞伎芝居「江戸の花色の立贔屓(たてひき)」の役者絵の着物の柄に登場する「いろはかるた模様」中の「い」の絵札も赤くないのであるから、「赤犬棒いろはかるた」の成立は、明治時代の直前、幕末期もどん尻の慶應年間(1865~68)のことであり、本格的な流行は明治初年(1868~77)からであったと推測される。こうした、幕末ギリギリから明治初年にかけてのどぎつい赤色の多用は、土佐の絵金や明治期の月岡芳年の配色の傾向にも通じる、時代の流行色であったのであろう。なお、かるたの世界では、歌かるた系の賭博札、「むべ山かるた」の役札「ふくからに」の読み札も赤色に変化するようになった。

もう一点、明治初期(1868~77)のいろはかるたが見せた変化は、配色の鮮やかさである。それは幕末期の暗い配色のカルタ札と好対照で、対外交易の拡大に伴う新しい顔料の輸入もあるのだろう、赤、黄、緑、紫などが色鮮やかに用いられている。中でも、すでに述べた流行の赤色に加えて、黄色と紫色の活用が目立つ。

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