太田孝太郎編集の「張込帳」にある南部花札(花巻花)5点の版木刷り出しは次のものである。
南部花札版木骨刷り①(後刷り、制作者不明、幕末期)
江戸時代後期 (1789~1854)に登場した木版の花札、「武蔵野」の様式に忠実なカルタである。細かい部分で正統の「武蔵野」の特徴をよくとらえている。版木上のカルタ札の配列は、右から「萩」「松」「柳」「芒」「梅」「牡丹」「紅葉」「桜」「菊」「桐」「杜若」「藤」で、各々、縦に、生き物札、短冊札、カス札二枚の順に並んでいる。この点は、京都で考案された「武蔵野」版木の本来の配列と違う。京都の「武蔵野」の場合は、彩色しやすいように並んでいるが、南部花札の場合は、大胆な手描きの彩色であり、この配列で問題はなかったのであろう。
ただ、この違いにより、花巻には京都のカルタ屋の版木そのものやシート状のその骨刷りが伝わったのではなく、伝わったのは「武蔵野」カルタ札そのもので、それを元に現地花巻で新たに版を起し、独自の彩色技術を開発したことが分かる。
南部花札(八八花札タイプ)版木骨刷り②(後刷り、鶴田製、幕末期)
「武蔵野」タイプで、①の札に比べると多少図柄の簡略化が見られるが、「芒に満月」の札の上部に雲を表す横線が見られ、「松」や「杜若」の短冊札で短冊をつるす紐が描かれるなど、「武蔵野」の元来の図柄になお忠実である。なお、「柳に燕」の札と「柳」のカス札に、花巻のカルタ屋、鶴田の屋号「ヤマ十」がある。また、短冊札の短冊の部分にわずかに中を削った跡があり、そうすると、ここに月名を入れた明治中期(1887~1903)の花札の版木を、その後も使っていたのかという推測を生む。
なお、札の配列は、右から、「萩」「松」「柳」「芒」「梅」「牡丹」「紅葉」「桜」「菊」「桐」「杜若」「藤」であり、①の方式を守っていることが分かる。
南部花札版木骨刷り③(後刷り、制作者不明、明治前期)
短冊札に月名表示のある、明治二十年代(1887~96)の「八八花札」タイプの花札である。但し、短冊札のない「芒」は円形の枠の中に「八」であり、同じく短冊札のない「桐」には月名表示がない。カルタ札全体に描線の簡略化が進行している。「柳」の札で雨が直線だけになっていて、雷雨、雷光の雰囲気が薄れている。枝の描写が直線だけで脇芽の描写がない。「牡丹」の札は花の図柄が趣意不明のものになっている。
なお、札の配列が、右から、「藤」「杜若」「桐」「芒」「桜」「紅葉」「菊」「牡丹」「梅」「柳」「松」「萩」である。①、②と比べるとほとんど反転させたように見えるが、その趣旨、理由は分からない。
南部花札版木骨刷り④(後刷り、菊栄堂、明治前期)
「武蔵野」タイプのカルタ札であるが、全体に奇妙なものがある。「芒に満月」の札では雲がない。「菊」の札では、特徴的なヒゲがない。「桜」のカス札はほぼ同じものが二枚かさなっている。「牡丹」のカス札は上下が逆さまである。「紅葉」の和歌は、「夕しぐれ」が「そそしぐれ」、「ぬれてや」が「あれてや」と誤記されている。
これらの誤記は、このカルタ版木が、他の版木を手本にして作られたものではなく、「武蔵野」のカルタ札そのものを見本にして作画された事情を物語っている。「桜」のカス札が二枚同じなのは、見本にした「武蔵野」で編成にミスがあり、同一のカス札を二枚入れてあったものをそのまま写したからであろうし、「牡丹」の札が逆さなのは、見本を上下逆さに置いて写したからであろう。いずれも、骨刷りのシートを見本にして作画する場合には起こりえないミスである。「芒」の札の雲や「菊」の札のヒゲがないのも、カルタ札では線が薄れていてよく見えなかったからであろう。いずれにせよ、全体としては、隙間の多い図柄である。
この版木では、四十八枚のカルタ札の配置も奇妙である。南部花札(花巻花)の場合は、通常は、カルタ札の図像を縦に一紋標、四枚、横に十二紋標、十二枚で収めるのであるが、この版木では、各紋標が縦横二枚ずつ、田の字状に纏められ、それが縦に二組、横に五組、合計四十枚収められている。こうすると、一組四十八枚の内八枚がはみ出すので、それは下辺に横一線にして八枚が並べられている。この点も版木の骨刷りを見本にしている①や②とは異なっている。
なお、右下隅に箱絵札がある。これがあるということは、この版木制作で手本にしたカルタ札が「武蔵野」と題された木箱に収められていたことを意味している。。包装紙で包まれて売られていたものであればこういう箱絵は存在しない。なお、この版木を作ったカルタ屋が、同じような木箱を模倣して制作してそれに南部花札(花巻花)を収めて販売したのか、紙包みの上にこの箱絵のラベルを貼って販売したのかは分からない。
この箱絵札の図柄では、「武蔵野」は意味不明の誤記、右下に「本家春」、左下に「菊栄堂」とある。ここには「本家春」とあるが、「本家」「春」ではなく「本」「家春」と読む。家春は「武蔵野」を売り出した京都のカルタ屋、山城家春のこと。家春製の本物という表示である。また、「菊栄堂」とあるが、これはこのカルタを制作したカルタ屋の名称である。これを入れたいのなら右下で、元々の制作者であった「本家春」を削ってそこに入れないとおかしい。「本家春」が制作者表示であると分からないのでこういうダブル表示になったのであろう。
また、「菊栄堂」というカルタ屋の情報はない。ただ、一般的に、カルタ屋が、江戸時代からの伝統である「〇〇屋」という表示を「〇〇堂」に変えたのは、花札の製造、販売が自由になった明治二十年代(1887~96)以降のことであり、この名称を使うカルタ屋のカルタ図柄もその時期を遡ることは考えにくい。
南部花札版木骨刷り⑤(後刷り、宇江・友植製、明治中期)
和歌のない「関東花」タイプの花札図柄である。明治年間(1868~1912)に全国にあった地方札のカルタ屋は、伝来の「武蔵野」タイプの地方札を作っていたのだが、明治中期に「八八花札」が流行すると、京都のカルタ屋が「武蔵野」の図柄を捨てて「八八花札」の図柄に切り替えたのに対して、各地の地方札のカルタ屋はその転換ができずに旧来の図柄の地方札を制作し続けて市場で苦戦するようになり、そこに明治三十五年(1902)の骨牌税法の施行に伴う納税義務や帳簿整備義務の負担増が重なって、ほとんどの店が廃業に追い込まれた。しかし、花巻では、任天堂との関係の深かった「鶴田」が、「武蔵野」の図柄の版木の和歌の部分を削り取って「関東花札」の図柄に改め、さらに本格的に「八八花札」の図柄を採用して「京花」として制作、販売する新経営方針に転じて、地方札のカルタ屋としては珍しく生き残ることができた。
この版木の図柄は、「鶴田」の新企画に同調している。このカルタ札の図柄では、「松」「梅」「藤」「杜若」「芒」「紅葉」のカス札に和歌がない。これは関東花札タイプの「武蔵野」である。これが「関東花札」タイプのカルタ札であって、「八八花札」タイプのカルタ札と呼べないのは、「柳」の札が雷雨の中を走る男であって、しとしと降る雨の中で跳躍するカエルを見る貴族ではないからである。この貴族、小野道風が現れるのは明治二十年代(1887~96)以降である。だから、この版木の図柄は明治前期(1868~86)のものと判断される。そして、「柳に燕」の札に「宇工」、「杜若」のカス札に「〇屋(〇は解読不能)」とあるので、「宇江」の制作したものと考えられる。