この時期の賭博遊技の世界に生じた大きな出来事が中国からの麻雀遊技の伝来である。中国における「麻雀骨牌」の発祥については、「馬弔紙牌」の図柄を牛骨に彫り込んで竹片と組み合わせて「麻雀骨牌(マーチャオクーパイ)」に仕立てたのは19世紀の半ば、中国南部、中部で盛んだった太平天国軍の陣中だという説があるが良く分らない。逆に、外国人の傭兵部隊を導入して太平天国軍を打ち破り、その後に絹や茶の輸出とアヘンの輸入で巨万の富を築いた清朝の官僚、とくに貿易港の寧波にあった税関の役人と商人たち、売国的な腐敗官僚と買弁資本家が仕立てたという説の方が今は有力である。「麻雀骨牌」は「馬弔紙牌」とその後身、「碰和」と同じような遊び方をしていたものであるが、遊技用具の制作に要する費用からすると、今でも「馬弔紙牌」は一組が日本円に換算すれば二、三十円で、「麻雀骨牌」は安価な牛骨製のものでも数千円で、細工に凝っていたり、材料に象牙を使っていたりすると数万円、数十万円である。同じ遊技で用具にかける費用にこれほどの開きがあるというものは世界にも他に例がない。日本でも、たとえば将棋の駒を江戸城での将軍様がお使いになさるということでいくら贅沢に作っても精々数十倍か百倍程度の価格差にしかならない。総象牙製の将棋駒など見たことがない。そういう点からすると、これほどの濫費を行えたのは、買弁貿易で巨額の富を獲得し、「アジアの豪奢」を享受していた金余りの買弁資本家たちだという考え方に納得がゆく。そして、「麻雀骨牌」を考案したそういう腐敗役人の代表として浙江省寧波市の税関の役人、陳魚門という名前が挙がっている。

今日残されている「麻雀骨牌」を見ると、一番古いものはニューヨークの博物館にある、アメリカ人ジョージ・グロバーが一八七〇年頃に勤務地の中国福建省福州市か、米中航路の起点の上海市あたりから持ち帰った二組の骨牌[1]である。それには「一筒」から「九筒」、「一索」から「九索」、「一萬」から「九萬」という数牌に「東」「南」「西」「北」の風牌、「中」の字牌が各四枚ずつあり、さらに若干のその他の花牌がある。だが、現在の「麻雀骨牌」に含まれる「白」「発」の牌は存在しない。その他、何カ所も現在の「麻雀骨牌」とは違う個所があり、確かに古い。

グロバー牌(AMNH牌)
グロバー牌(AMNH牌)
グロバー牌2(BMA牌)
グロバー牌2(BMA牌)

一方、「麻雀骨牌」に「白」「発」を加えて今の「麻雀牌」の構成を完成させたのはこの時代の寧波市の麻雀愛好者たちであり、そこで近代の「麻雀骨牌」を「寧波麻雀骨牌」と呼ぶこともある。当時寧波市内で製作されて、まだ物珍しかったのか「白発蔴雀牌」と名付けて売られていた「麻雀骨牌」も残っており、今では日本の麻雀博物館の所蔵になっている。

日本人は、明治時代後期(1902~12)に中国でこの遊技を見聞しており、いくつかの記録が残っているが、いずれも「麻雀」を見たという文字情報であって、これが「馬弔」から派生した「碰和紙牌」ないし「麻雀紙牌」の遊技を見たものと理解すればいいのか、それとも今日の「麻雀」の祖型のグロバー牌のような「麻雀骨牌」の遊技を見たのかが判然としない[2]

名川彦作牌
名川彦作牌

確定的に「麻雀骨牌」で遊び、それを日本に持ち帰ったと記録される最初の人間は、雲南省で日本語の語学教師をしていて帰国した名川彦作と考えられている。日本に持ち帰ったのは明治四十二年(1909)のことである。彼が日本に持ち込んだ「麻雀骨牌」[3]は名川の子孫から「麻雀博物館」に寄贈されて収められているので検証できる。それは、清朝末期、日本暦で言えば明治末期(1908~12)、西暦で1910年頃に上海市あたりで売られていた記録もあるタイプの普及品であり、名川が日本への帰国途上で購入したものと思われる。

『支那加留多ノ取リ方』
『支那加留多ノ取リ方』

大正期(1912~26)の古い麻雀遊技の解説本に『支那加留多ノ取リ方〈麻雀遊戯書〉』[4]と題されたものがあるように、麻雀の出自は紙製の「加留多(カルタ)」であり、遊技法が類似していることからもカルタの一種として理解できる。中国のカルタは江戸時代に伝来していて少なくとも長崎では遊技がされていたし、幕末の開国後は神戸や横浜の外国人居留地では中国人の賭場が開催されて盛大に博奕が行われていたから、麻雀の伝来は中国系のカルタの三度目の伝来と言うことになる。

なお、アメリカで「麻雀」を最初に本格的に紹介したのは民族学者スチュワート・キューリンである。キューリンは、東アジアの遊戯に関心が強く、長年研究を進めていたが、1910年頃に実際に北東アジアの日本、中国に出向いて調査を深めていた。そして、その調査旅行の成果の一つとして「麻雀」に関する論文を発表したが、その際に参考資料として示したのが、彼が上海で購入した「麻雀骨牌」[5]であり、これが名川の「麻雀骨牌」と実によく似ている。キューリンが論文で使用した「麻雀骨牌」は、論文上でその図像を示した後に行方不明になっていて今日では検証ができないので不便であるが、名川の「麻雀骨牌」を見ているとキューリンのものも自然と想像できてくる。

イギリスで流行したチャド社製の麻雀牌
イギリスで流行したチャド社製の麻雀牌

ただ、キューリンが紹介したころには、「麻雀」は中国の一部地方でのローカルな遊技であり、欧米ではイギリスで多少流行し始めていたものの、まだあまり関心をひかなかった。それが一挙にグローバルな遊技になったのは、大正十年(1921)頃、アメリカのスタンダード石油福州支店の社員、ジョセフ・バブコック(Joseph P. Bubcock)が英文で解説書”MAH-JONGG The Fascinating Chinese Game”を書き、麻雀骨牌をアメリカに輸出するようになり、それが当たって大正十二年(1923)頃にはアメリカで爆発的な流行を見たことによる。

この時、バブコックは「麻雀」の漢字二文字をMAHJONGGと英字で表記し、しかもそれを意匠登録してしまったので、彼の影響下で麻雀が世界遊技になるにつれて、「麻雀」をMah-Jongg、Mahjongなどと書いて「マージャン」と読むことが全世界に広がった。中国語の発音からすれば「雀」は「馬弔紙牌」の「弔」と同じで「チャオ」とか「ジャオ」と読まれる文字であり、これを「ジャン」のように撥音で発音する地方はどこにもないのにバブコックは誤読したのであるが、この読みが既成事実となってしまった。そして日本は、名川は全く独自に、中国から直接に麻雀を伝来させたものの、その後、バブコック以降に欧米の影響下にマージャンの文化を取り入れたので、「麻雀」と書いて「マージャン」と読む国になった。なお、中国では、この混乱を嫌って、南部では「ジャン」と読む字の「将」を用いて、「マージャン」には「麻将」の文字をあてるようになったので、「マージャン」を「麻雀」と表記したり、「雀」という文字を「ジャン」と読んだりする国は日本しかない。その意味ではこれはアメリカ由来の日本語の漢字の発音という不思議な外来語になるが、日本の国語辞書では、「雀」の文字の発音は「スズメ」のほかは「ジャク」だけで、「ジャン」という読み方は載っていない。中国の辞書でももちろん「雀」に「ジャン」の読みはないので、「雀」を「ジャン」と読む漢字使用国、地域は、辞典の上では世界中のどこにもないという奇妙な事態になっている。

チャイナドレス姿で麻雀を楽しむアメリカの女性たち
チャイナドレス姿で麻雀を楽しむ
アメリカの女性たち

なお、アメリカではこの時期には、「麻雀」を楽しむときには女性であればチャイナ・ドレスを着用することも流行した。アメリカ人の東洋趣味、中国好みの表れである。こうした時流に乗って、上海の古着屋が「売り切れ」になるほどにチャイナ・ドレスを対米輸出して大もうけした者がいた。


[1] 江橋崇「プロト・マージャン19世紀のマージャン骨牌について」第一回、『麻雀博物館会報』第九号、竹書房、平成十七年、一四頁。

[2] 鈴木知志「日本麻雀史」『麻雀博物館大圖録』、竹書房、平成十一年、八三頁。 

[3] 江橋崇「プロト・マージャン19世紀のマージャン骨牌について」第二回、『麻雀博物館会報』第十号、竹書房、平成十七年、一七頁。

[4] 王維魯・日華山人『支那加留多ノ取リ方〈麻雀遊戯書〉』、済南・廣源公司出版部、大正十三年。麻雀博物館編『麻雀博物館大圖録』、竹書房、平成十一年、一五八頁。

[5] Stewart Culin “The Game of Ma-Jong. Its Origin and Significance”, Brooklyn Museum Quarterly, vol. XI, 1924, pp. 153-168.

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