幕末期から明治初年にかけては、江戸で製作されて流行した木版画の「いろはかるた」類では、伝統的な「いろは譬えかるた」の周辺に教訓的な新内容の「いろはかるた」が登場した。また、前代から盛んだった「芝居遊びかるた」「言葉遊びかるた」「外国語かるた」などに加えて、数百年ぶりの内戦であった戊辰戦争や西南戦争を経て、リアルな「武者かるた」が復活し、それは後に日清戦争、日露戦争の「軍人かるた」に継承されていった。
まず、新内容の教訓的な「いろはかるた」であるが、明治前期(1868~87)には、折からの英語学習ブームを受けて、「ローマ字付きいろはかるた」が登場した。それは以下の内容のものである。
「いろはたん歌(か)はちゑのがくもん(いろは短歌は知恵の学問)」
「ろくでなしの能(よい)ものずき(禄でなしの良い物好き)」
「はな嫁(よめ)もみのればしうと(花嫁も実れば姑)」
「にあはぬ妹背(いもせ)はふゑんのもと(似合わぬ妹背は不縁の元)」
「ほうゆうはたがひにしんぎ(朋友は互いに信義)」
「へいきであきれが礼(れい)にくる(平気で呆れが礼に来る)」
「とせいのとくいは金のつる(渡世の得意は金の蔓)」
「ちをのむ子にはあまきをいめ(乳を呑む子には甘きを忌め)」
「りしもつもれば元(もと)(もと)にます(利子も積もれば元に増す)」
「ぬれぬさきには露(つゆ)をもいとふ(濡れぬ先には露をも厭う)」
「るすいの昼寝(ひるね)に猫(ねこ)がなく(留守居の昼寝に猫が鳴く)」
「をいそれものは大事(だいじ)をとげず(おいそれ者は大事を遂げず)」
「われたきづは一生いえず(割れた傷は一生癒えず)」
「かない安全日曜(よう)の夫婦づれ(家内安全日曜の夫婦連れ)」
「よくからはまるおとし穴(欲から嵌る落し穴)」
「たのもしきは親子(おやこ)の朝きげん(頼もしきは親子の朝機嫌)」
「れいぎもすぐれば不禮(ぶれい)となる(礼儀も過ぐれば無礼となる)」
「そのみになつて牛馬(ぎうば)をつかえ(その身になって牛馬を使え)」
「つのあるものへは牙(きば)をあたへず(角有る者へは牙を与えず)」
「ねづかぬ植木(うへき)は実(み)がならず(根付かぬ植木は実が成らず)」
「なまけ書生(しよせい)の末(すへ)は車夫(しやふ)(怠け書生の末は車夫)」
「らくだいしたら夜をひにまなべ(落第したら夜を昼に学べ)」
「むだぐちぎゝの長ッ尻(ながッちり)(無駄口利きの長っ尻)」
「うけたる恩は犬もわすれず(受けたる恩は犬も忘れず)」
「ゐ戸(ど)は陋屋の福の神(ふくのかみ)(井戸は陋屋の福の神)」
「のらくら者のせつきばたらき(のらくら者の節句働き)」
「おどしもなれては鳥がとまる(嚇しも慣れては鳥が止る)」
「くすりももすぐれば毒(どく)となる(薬も過ぐれば毒となる)」
「やけぼつくいは火がつきやすし(焼け棒杭は火が着き易し)」
「またをくゞつたちゑはかんしん(股を潜った知恵は韓信)」
「けんやくは寶(たから)のとつとき(倹約は宝の取っとき)」
「ふですみは心のつかひ(筆墨は心の遣い)」
「ことばづかひでそだちがしれる(言葉遣いで育ちが知れる)」
「えくぼの穴に虎(とら)がすむ(笑窪の穴に虎が住む)」
「ておしの車(くるま)は税(ぜい)がでず(手押しの車は税が出ず)」
「あほう烏(からす)は畑のみほる(阿呆烏は畑のみ掘る)」
「さけのさかなはありあひがよし(酒の肴は有り合いが良し)」
「きをはけめば病(やまひ)おこる(気を励めば病起こる)」
「ゆきあふ道は左りへよける(行合う道は左へ避ける)」
「めで見ぬところはちゑで見る(眼で見ぬ処は知恵で見る)」
「みがいてわろきはかんしやく玉(磨いて悪きは癇癪玉)」
「しろざけで娘(むすめ)の顔(かほ)は金太郎(白酒で娘の顔は金太郎)」
「ゑにある餅(もち)はみたばかり(絵にある餅は見たばかり)」
「ひとくひ馬にものつてみよ(人食い馬にも乗ってみよ)」
「もぬけるわざは性(せい)による(も抜ける技は性による)」
「せたいは家のゆづりもの(世帯は家の譲り物)」
「すき腹(はら)でむしがなくヅドンまへ(空き腹で虫が鳴くヅドン前)」
「京はおり物仕立はあづま(京は織物仕立は東)」
ところで、この時期には、江戸時代の文化、文物が衰亡に向かった。武家の文化の没落と、それに結びついていた旧来の庶民文化の衰退は激しかった。旧幕臣の家は困窮し、中には家族が売春に及ぶものもいた。ここで取り上げた大阪の「大新板開化皇国四十八言たとへ」が維新後の明るい新風俗を懸命に紹介するなかに、ひとついかにも暗く場違いなように紛れ込んでいるのが「たびたびからるゝ陰売女(しろいもじ)」である。「白い文字」は「白人」つまり私娼であり、実際、かるたの「しろいもじ」には「隠売女」という文字が配されている。街娼がたびたび警察の狩り込みを受けて摘発されているのも旧幕臣家族の困窮という新風俗だといえばそうだが、もの悲しい話である。文明開化の闇になるが、そこに一つだけだが眼を向けた大阪人の石川和助の気持ちも手放しの文明開化礼賛ではなく複雑であったのだと推測される。
なお、私の手元にも何組かの明治前期(1868~87)の「忠臣蔵かるた」がある。その一例を紹介しておきたい。、版元は不明のもので次の内容である。
「いちいちあらためるかぶとのかづ(一々改める兜の数)」
「ろう人もののはがねハたたぬ(浪人者のはがねは立たぬ)」
「はつとり逸郎(イツラウ)橋の上(服部逸郎橋の上)」
「にもつをもつて平右エ門(荷物を持って平右エ門)」
「ほん蔵にわの松をきり(本蔵庭の松を切り)」
「へいもんときいておどろく早野勘平(閉門と聞いて驚く早野勘平)」
「とつかのやまの石高道(イシタカミチ)(戸塚の山の石高道)」
「ちうぎのかがみ四十七人(忠義の鑑四十七人)」
「りきやさんのおやしきはのうここかへ(力哉さんのお屋敷はのう此処かへ)」
「ぬすミをはたらく定九郎(盗みを働く定九郎)」
「るらうハしてもゑんやのけらゐ(流浪はしても塩谷の家来)」
「をとこをたてる天川や(男を立てる天川屋)」
「わかさの介はむねんのはがみ(若狭之助は無念の歯噛み)」
「かどぐちにさむらい二人(門口に侍二人)」
「ようじんきびしき髙野のやしき(用心厳しき高野の屋敷)」
「たわいたわいごめんそうらい(たわいたわい御免そうらい)」
「れんぱん状にけつぱんし(連判状に血判し)」
「そうぜい二タ手にうらおもて(総勢二手に裏表)」
「つるがおかにただよし公(鶴が岡に直義公)」
「ねみゝにひびくじんだいこ(寝耳に響く陣太鼓)」
「なとりのすいものてうちそば(菜鳥の吸物手打ちの蕎麦)」
「らんにうなしたるやかたのうち(乱入なしたる館の内)」
「むかししのびししのだの狐(昔偲びし信太の狐)」
「うち入る時こくハ九ツどき(討ち入る時刻は九つ時)」
「ゐのししかけくる一トすじ道(猪駆け来る一筋道)」
「のちのかたみと九寸五分(後の形見と九寸五分)」
「おかるは二かいでのべかがみ(お軽は二階でのべ鏡)」
「くろと白とのがんぎ染(黒と白との雁木染)」
「やまと川とのあいことば(山と川との合言葉)」
「まいない進もつそでの下(賂進物袖の下)」
「けらいひきつれさぎ坂伴内(家来引連れ鷺坂伴内)」
「ふなだふなだ鮒さむらい(鮒だ鮒だ鮒侍)」
「こむさうすがたにかこ川本蔵(虚無僧姿に加古川本蔵)」
「えんの下には斧九太夫(縁の下には斧九太夫)」
「てのなるほうへ由良おにまだか(手の鳴る方へ由良鬼まだか)」
「あめの夜ミちを与一兵衛(雨の夜道を与一兵衛)」
「さなきだにおもきがうゑのさよごろも(さなきだに重きが上の小夜衣)」
「ぎしのめんめんせいぞろい(義士の面々勢揃い)」
「ゆらの助はととうのかしら(由良助は徒党の頭)」
「めっぽう弥八に狸の角兵衛(めっぽう弥八に狸の角兵衛)」
「みづのながれと人の身は(水の流れと人の身は)」
「しまのさいふの五十両(縞の財布の五十両)」
「ゑんやのおく方かほよごぜん(塩谷の奥方かほよ御前)」
「ひきようみれんな髙野のけらい(卑怯未練な高野の家来)」
「もんをかけやでうちやぶり(門を掛矢で打ち破り)」
「せんがくじへとひきあげる(泉岳寺へと引き上げる)」
「すみべやに身をかくし(炭部屋に身を隠し)」
「京やましなにわびすまゐ(京山科に侘び住まい)」
また、「西南戦争武者かるた」(仮題)もある。まさに「当世武者かるた」である。これは明治十年(1877)に起きた西南戦争の「賊徒」の側に立ち、「りく軍大将(ぐんのたいしやう)西郷隆盛(さいごうたかもり)」以下の男女の参加者を、勇士、勇婦と讃える内容のものであり、「ちう國巨魁(こくのきよくはゐ)前原一誠(まえはらいつせい)」「え藤新平(とうしんぺい)」らも取り上げられる、反政府色の濃い政治的な内容のかるたである。また、「き」に収まるべき貴島清は、そこに「きり野利秋(のとしあき)」がいるので空席のあった「ね」に回って「ね強(ずよ)い隊長(たいてう)貴島清(きじまきよし)」として登場し、篠原くには、「しの原國幹(はらくにもと)」がいるので「ゆう婦篠原(ふしのはら)くに」になるなど、配列に工夫がある。西南戦争の当時の錦絵には、「賊徒」「賊軍」としながらも西郷一派の活躍を肯定的に描くものが多数発行されているが、このかるたもそういう志を共有するものである。「武者かるた」としては例外的な、同時代の武者、軍事的、政治的な敗者への挽歌であり、いろはかるたが大人の遊技具であった江戸時代の文化への挽歌でもあったと思う。
「いけ辺吉十郎(いけべきちじうらう)」
「ろう母(ぼ)肥後ゆき(ひごゆき)」
「はや川五郎(はやかはごらう)」
「に禮平兵衛(にれへいべゑ)」
「ほまれの髙(たか)キ伊集院とき(いじゆうゐんとき)」
「へん見十郎太(へんみじうらうた)」
「とり井數恵(とりゐかづゑ)」
「ちう國巨魁(ごくのきよくはゐ)前原一誠(まへばらいつせい)」
「りく軍大将(ぐんのたいしやう)西郷隆盛(さいごうたかもり)」
「ぬま田常雄(ぬまだつねまさ)」
「るいなき勇婦(ゆうふ)村田いを(むらたいを)」
「を智彦四郎(をぢひこしらう)」
「わ田傳(わだつとふ)」
「か陽栄太(かやえいた)」
「よこ山俊彦(よこやまとしひこ)」
「たけ辺小四郎(たけべこしらう)」
「れう将(しやう)久光(ひさみつ)」
「そげき隊(たい)能勢九十郎(のせくじうらう)」
「つくし照門(つくしてるかど)」
「ね強(づよ)い隊長(たいてう)貴島淸(きじまきよし)」
「なか根米七(なかねよねしち)」
「らう士(し)石井武ノ助(いしゐたけのすけ)」
「むら田新八(むらたしんぱち)」
「う都宮良右エ門(うつのみやりやうゑもん)」
「ゐけ上四郎(ゐけうえしらう)」
「の村十郎太(のむらしうらうた)」
「お田黒伴雄(おたぐろともを)」
「く世義丸(くぜぎまる)」
「やま口(ぐち)の脱士(だつし)前原一挌(まへばらいつかく)」
「ます田宗太郎(ますだそうたらう)」
「けん令(れい)たりし大山綱良(おゝやまつなよし)」
「ふち辺郡平(ふちべぐんぺい)」
「ご藤純平(ごとうじゆんぺい)」
「え藤新平(えとうしんぺい)」
「て子丸應介(てしまるおうすけ)」
「あり馬とう太(ありまとうた)」
「さと原(はら)三男(なん)町田敬二郎(まちだけいじらう)」
「きり野利秋(きりのとしあき)」
「ゆう婦(ふ)篠原くに(しのはらくに)」
「め良市之亟(めらいちのじやう)」
「みつ渕英太郎(みつぶちえいたらう)」
「しの原國幹(しのはらくにもと)」
「ゑい矢一郎(ゑいやいちらう)」
「ひご助左衛門(ひごすけざゑもん)」
「もと警部(けいぶ)中嶋武彦(なかじまたけひこ)」
「せき口文七(せきぐちぶんしち)」
「す嵜休二郎(すさききうじらう)」
「京地(ち)捕縛(ほばく)大海原尚義(おゝうみはらなほよし」
「芝居遊びかるた」は明治期(1868~1912)に衰退に向かった。私はかるたの文化は明治十年代(1877~86)末期までが近世で、近代のかるた文化は明治二十年代(1887~96)に始まったと思っている[1]。「芝居遊びかるた」も明治二十年代(1887~96)に急速に終焉に向かった。木版の「芝居遊びかるた」が一般の商品として通用したのもこの時期までである。その最後を飾ったであろうものが名古屋市南園町の成瀬太郎が制作した木版合羽(かっぱ)刷りの俳優似顔絵のカードである。明治三十四年(1901)に刊行された大田才次郎編の『日本全国児童遊戯法』[2]には尾張の項に「又近年、南園町成瀬太郎と云うが発明せし庄屋拳(一名めんこ)は、‥‥年々数万製造し、小児の愛を鬻(ひさ)げり。又同人は近頃、魚尽(うおづく)しの花合せ、俳優似顔絵のかるた等を製造し、その物名を小児に早く得解(えと)くよう、専ら発売を工夫せるという」とある。ここにいう「俳優似顔絵のかるた」は「役者絵かるた」風の庄屋拳カード(庄屋券)であり、四十八名の歌舞伎俳優の似顔絵が描かれており、右上端に花合せの古型の「武蔵野」が窓絵として付いていて、下部中央に庄屋、猟人、狐の庄屋拳の挿絵があり、その下に役者名が書かれている。
これ以降には、商品としての木版の「芝居遊びかるた」は、「役者絵かるた」にしても、「筋書かるた」にしても、「声色かるた」にしても見つかっていない。わずかに、雑誌『新演芸』には、明治三十五年一月の第四号の付録として「義太夫文句合(ぎだいふもんくあはせ)いろは歌留多(かるた)」があり、また雑誌『演芸画報』には、明治四十三年一月の第四年第一号の付録として「春興演劇あわせ」があり、翌明治四十四年一月の第五年第一号の付録に「歌舞伎の花当り狂言春遊(はるあそび)あふむ歌留多(かるた)」がある。最後のものは「声色かるた」であり三十六対の人気の役柄と役者が描かれている。ただ、女形は五世梅幸の八重垣姫だけである。男女の別を強調するようになったこの時期の世相を反映しているのであろうか、奇妙な構成である。
これが大正時代に入ると、浮世絵に替えて写真版のものが出始める。歌舞伎の舞台が写真に撮影されたトランプが登場し、さらに取り上げられる人物も映画俳優に移っていった。古めかしい木版の「芝居遊びかるた」は終末期を迎えた。
[1] 江橋崇「明治二十年代における近代カルタの成立」『人形玩具研究―かたち・あそび』第十六号、日本人形玩具学会、平成十八年、一六七頁。
[2] 大田才次郎編『日本全国児童遊戯法』(『日本児童遊戯集』東洋文庫第一二二号)、平凡社、昭和四十三年、一三一頁。