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(三)「すんくんカルタ」に写された「うんすんカルタ」

『うんすんかるた』所収のすんくんカルタ版木では、九十七枚目のエキストラ・カードとして、「蝙蝠龍」の「ハウ」の札が加えられており、合計すると、紋標「ハウ」の「一」の札としては、棍棒だけを描いた「紋標数一」の札と「火焔龍」の「ロハイ」の札と「蝙蝠龍」の札で、合計三枚あることになる。山口吉郎兵衛はこの追加的な「蝙蝠龍」の「ロハイ」の札を、親決めに使うもので、具体的には他の札とともにゲームの開始時に配分する中に含まれ、これを引き当てた者を最初のトリックの出親にするものであろうと推測している。こうした不思議な事情があって、「火焔龍」の「ロハイ」の札と「蝙蝠龍」の「ロハイ」の札が同時代に存在していて、同じカルタ屋でともに作られていたと想定されるようになった。もしこれがカルタの完成品であったならば、「蝙蝠龍」の「ロハイ」の札は他のセットのものが偶然に混合されたものと理解したであろう。この点では版木が発見されたことが幸運であった。また、この版木には、裏面に「歌かるた」も彫られているので、この経師屋がとても広くカルタ・かるたの営業品目を扱っていた事情も見える。

このすんくんカルタでは、その図像はまず元禄年間(1688~1704)末期ごろのうんすんカルタ一組の五紋標、七十五枚の札の図像をそのまま忠実にすべてコピーし、そこに第六の紋標、矢印の札十六枚を足して構成されている。そのために、ここに、それまでは制作年代が明確に判明する実物が残されていなくて曖昧模糊としていたうんすんカルタについて、元禄年間(1688~1704)末期という時期が分かるフルセットの図像が出現したのである。それは、数札では交差する「ハウの二」であり、「ハウ」でも「イス」でも「四」から「九」までにすべてひし形があり、絵札では「ソウタ」は弁財天スタイルの着物姿の女性、「キリ」は高床に腰掛ける男性、そして「ロハイ」は「火焔龍」であった。つまり、元禄年間(1688~1704)末期の社会では、「火焔龍」型の古い図像のうんすんカルタが標準的な形であったのである。すでに早く山口吉郎兵衛はこのことに気付いていたのだが、この発見はうんすんカルタ発祥の年代を検討する研究にとっては思いもよらない幸運である。

ところが、ここで元禄年間(1688~1704)末期の制作者は、さらなる幸運を提供している。第六の紋標である「矢」印を追加する際に、何を手本としたのかであるが、「火焔龍」の標準的な図像の一部を借用すれば重複になってしまう。そこで制作者は、社会に通用しているもう一種類のうんすんカルタの図像を借用した。それが男性の「ソウタ」と、箱に坐る「キリ」である。つまりこの時期、社会には、「蝙蝠龍」のうんすんカルタも有力に存在していたことが明らかになったのである。こうして、このすんくんカルタの版木は、初期のうんすんカルタ史のあり様をよく示す、信頼性の高い基準標本となったのである。

うんすんカルタをカルタの制作者というレベルで考えれば、私が『ものと人間の文化史173かるた』で解明したように、京都には、二條あたりで手描きの美麗なカルタを制作していた業者と、六條坊門(五條橋通)あたりで木版の安価なカルタを制作していた業者の二集団があり、前者は中国人社会経由で伝来した「火焔龍」を継承し、後者は南蛮から直接に伝来した「蝙蝠龍」を継承していたことになる。

龍の絵の付いたカルタは世界中に広まったが、それは「蝙蝠龍」だけであり、それを「蝙蝠龍」と「火焔龍」の二種類に発達させた実例は日本にのみ残されている。この奇妙な中国文化的な変化という歴史的な事実をどう理解するのかはなお今後の研究課題であろう。

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