四 先人の学説の継受と批判

この半世紀に近い長い期間のかるた史研究で、私は実に多くの先人の業績に学んできた。とりわけ、かるた史を、文献史料と物品史料を併用して駆使して構築する手法は、山口吉郎兵衛の『うんすんかるた』に学んだ。中世末期以降の地方文化史の文脈の中でカルタ遊技史を理解して構築することはシルビア・マンから学んだ。誰一人疑うことのなかった新村出のポルトガルからの直接伝来説に異を唱え、中国経由の間接伝来の可能性を指摘した永見徳太郎の着想には驚かされた。私と同時期に研究活動を共にした人の中では、とりわけ「日本かるた館」同人の山口格太郎、佐藤要人、森田誠吾、村井省三、岩本史朗、岩田秀行らから多くを学んだ。

いっぽうで、私は、これまでも、貞享三年(1686)に『雍州府志』を表した黒川道祐のような歴史上の人物であっても、あるいは山口の様に尊敬してやまない先人であっても、誰であれその研究業績、著作物に誤りがあれば厳しく批判してきた。黒川道祐が京都二条で手描きのカルタを商っている店に今一歩深く踏み込んで取材して、それを記録してくれていれば、後世のかるた史論の混乱はずいぶん防げたであろうにと愚痴を言ったこともある。黒川が『雍州府志』で合せかるたについてもう一言、二言を述べてくれていたら、誤記説など生まれないで済んだかもしれないと述べたこともある。明治中、後期(1887~1912)の「玩具博士」清水晴風が、折角「集古會」を続けていたのだからもう少し歴史史料に忠実に物を書いてくれていたらよかったのにと、ない物ねだりをしたこともある。山口吉郎兵衛が道勝法親王筆かるたの極書にふりまわされずに、彼自身が『うんすんかるた』の末尾で指摘しているように、それは江戸時代初期(1603~52)のかるたではなく、江戸時代前期(1652~1704)、それも元禄年間(1688~1704)に近い時期のであるとする判断を明言してくれていれば、後進はどんなに助かったことかと嘆いたこともある。鈴木棠三が地口かるたの存在を見誤らなければ、鈴木自身のかるた史研究も全く違っていただろうし、広く合せかるた研究ももっと実リ豊かであり得たであろうと思っても来た。百の学恩を感じる先人に対して、二、三の瑕疵を咎めるようで気が引けたが、学術の進歩の為には誤りは批判しなければならない。

ここで一々名前を挙げるのは差し控えたいが、村井省三については書いておきたい。村井は賭博系カルタの歴史については私の師であり、「かるたをかたる会」でも最有力なメンバーの一人であった。だが、昭和末期に自宅に「村井カルタ資料館」を設立し、私たちも大いに応援したのだが、外部の反応は村井の得意とする賭博系カルタの歴史にではなく、平凡に百人一首かるたやいろはかるたに集中したところ、当初は賭博系カルタの資料館という構想であったものを、この世間の反応に舞い上がって歌合せかるたやいろはかるたでも日本一の博物館であると言い出すようになり、明治中期(1887~1702)の越後花札の一組が、明治初期(1868~77)のものになり、幕末期(1854~68のものになりついには江戸時代後期(1789~1854)にまで遡るような、所蔵史料が日本一であるとする評価替え、誇大鑑定を行うようになり、また、その後に福岡県大牟田市が開設した三池カルタ記念館(現・三池カルタ・歴史資料館)への激しい批判を展開した。村井カルタ資料館は個人の運営であり、必要経費をねん出するために高額の取材料、撮影料を必要としていたが、三池カルタ記念館は公立の施設であり、取材も写真撮影は費用を徴収せずに自由に認めていたところ、あちらにはろくなコレクションはなくてコピーばかりだから行ってもいいものの写真撮影はできないので止めてここで済ませなさい、それでも行くのなら当館は協力しませんなどと、三池カルタ記念館の参観すら控えるように求めだした。個人経営の資料館の運営が困難である点は理解できたが、他館への営業妨害のような自館売込みは行き過ぎである。私は、大牟田市の果敢な試みを応援していたので、市の名誉を守るためにやむを得ず村井批判を遊戯史学会の学会誌『遊戯史研究』誌上で展開して決別するに至った。「三池には行くな」とまで言わなければ黙っていたのにと、師からの一線を越えた攻撃にどう応じるのか悩んだ苦い思いが今でも残っている。私の長い研究生活で、もっとも重苦しい作業であった。

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