「ガラ札」が世に残ったのはこのように山口、神
百貨絵合せかるた

百貨絵合せかるた(制作者不明、江戸時代後期)

保の功績であるが、しかし、その紹介のあり方には残念だが問題があった。「ガラ札」は、江戸時代中期、後期の社会に溢れていた膨大な種類の「絵合せかるた」の中でごく一部のものにすぎなく、後世の好事家はたまたまそれが残存していたという事情を過大評価している。だが、私は、幸いなことに、平成年間(1989~2019)のはじめに史料を得た。それは明治時代前期(1868~87)の万物を題材にした「絵合せかるた」で、「百貨絵合せかるた」とでも呼びたくなるようなものである。カードの大きさは縦六・九センチ、横四・六センチで、現存するのは百五対(内十七枚は文字札のみ)である。その内容は十二支、七福神、六歌仙、縁起物、宝物、動物、植物、日用品、大掛かりな道具、子ども用品、楽器、被り物、食べ物屋、その他に及んで、以下に列挙するように幅広い。全体に江戸の文化であるが、中に蒲焼の和田平がある。同店は明治十八年(1885)の創業となっており、そうすると明治前期(1868~87)のかるたと言うことになるが、これ以外の札はすべて江戸時代そのものであり、明治時代前期(1868~87)の新風俗が他に一切登場していないのが奇異である。和田平がもっと以前の時期から営業していたのか、あるいは、江戸時代の百貨絵合せかるたを写して制作した際に、元来の店が閉店していたので作者贔屓の和田平を代わりに加えたのか、事情は良くは分からないが、この札以外は江戸時代の作といっても十分に通るものであるだけに不思議である。

 

百貨合せかるた(明治前期)

 

「いぬ子ら」「いかり」「猪の子」「花せうぶ」「破軍星」「はま弓」「羽子板」「箱てうちん」「はしご」「半天」「二八そば」「にわ鳥」「布袋」「へび」「弁天」「鳥居」「とら」「頭取」「丁子」「ちぎ箱」「龍」「わかざり」「和田平」「かに」「かわほり」「かがみ」「からす天狗」「かくれ笠」「かま」「かぶと」「蛙」「かさぐるま」「かぎ」「紙ひな」「亀の子」「かんむり」「鯛」「大八車」「太鼓」「大黒」「立ゑほし」「達磨」「竹」「僧正」「ぞふ」「つる」「つゞみ」「ねこ」「鼠」「業平」「武蔵野」「団扇」「馬」「うさぎ」「梅の花」「うし」「うす」「ゐんぎ」「おかめめん」「大当り」「御備」「黒主」「くま手」「まり」「松の木」「まさかり」「巻物」「けし札」「福禄寿」「ふで」「富士」「文屋」「こと」「五大力」「こま」「小づち」「小町」「金精」「絵馬がく」「海老」「恵比寿」「天神様」「あさの羽」「朝比奈」「さる」「三番叟」「珊瑚珠」「玉」「狐の面」「菊の花」「面箱」「水鉄砲」「みの」「都鳥」「七宝」「寿老人」「獅子」「陣笠」「びわ」「ひよつとこめん」「ひつじ」「日の出」「毘沙門」「紅葉」「双六」(下線あるものは文字札のみ、ないし絵札のみ)

 

半纏の札と消し札の札

 百貨合せかるた・半纏の札と消し札の札

こうした中で特に注目されるのは、「半天」と「消し札」の札である。「半天」には「い」の文字が図柄になっており、いかにも火消しの「い組」の装束である。「消し札」は「い組」の文字も明瞭で、このかるたと火消しの「い組」との強い関係がうかがわれる。一部が欠けた状態であるがそれでも百対を超えており、山口が記録したように百三十対ないし百四十対が元来の姿であろうと思わせるボリュームである。外箱も失われていてかるたの名称が伝わっていないので、私はこれを仮に「町火消し『い組』のかるた」と呼んでいる。史料に欠ける想像に過ぎないが、幕末期ないし明治年間に、浅草蔵前や、柳橋の歓楽街にい組ご愛顧の料理屋があり、そこに集まった旦那衆が芸者とともにこのかるた札に遊び興じるさまが目に浮かぶ。

 

このほかにも、何組か、幕末期(1854~68)から明治前期(1868~87)にかけてのものと思われるが「百貨絵合せかるた」を見る機会があった。特に早稲田大学演劇博物館には歌舞伎芝居に関する題材が多く取り入れられているかるたがあり、賭博の遊技に用いる小道具も揃っていて印象が強い。

 

いずれにせよ、この「百貨絵合せかるた」の発見により、江戸時代後期(1789~1854)から幕末期(1854~68)にかけては、百対・二百枚を超える枚数の大部の「絵合せかるた」があり、それにはさまざまなバリエーションがあって明治期(1868~1912)以降の「ガラ札」はその末裔のひとつであったことが想定されるようになった。「百貨絵合せかるた」は、基本的には絵札と字札のかるたであり、字札を廃して柳箸に変えた「ガラ札」は明治時代(1868~1912)になってくじ引きゲームに変身した「百貨絵合せかるた」の末裔と理解できる。

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