まっさきに問題になったのが、カルタのデザインである。なにしろ、「三池カルタ」は残存するものがなく、わずかに兵庫県芦屋市の滴翠美術館に「三池住貞次」作のカルタの「ハウのキリ」(棍棒の王)のカード[1]が一枚残っているだけなので、デザインが分からない。以前は安田財閥の松廼舎が一組持っており、その一部、カード五枚の模写図[2]が明治年間後期(1902~1912)に刊行された清水晴風『 うなゐのとも 』第五編に掲載されているが、その図像には真偽に関して多くの疑問点があり、再検討が必要であった。また、残念なことにこのカルタは関東大震災によって消滅してしまい、今日には残されていない。

そこで、復元の作業は、まずカードのデザインの探求から始まった。これが解明されなければ、そもそも復元の計画が成り立たない。関連資料の蒐集は広範囲に及んだ。国内では、天正カルタ関連の資料、とくに、カルタ遊びの場面を扱う「松浦屏風」[3]や京都の藤井永観堂旧蔵の「カルタ遊楽図」[4]などに描かれたカードのデザインや彩色を参考にした。滴翠美術館や南蛮美術館の厚意で、カルタ模様の描かれた所蔵物品のデザイン調査もできた。現代まで残存する「三池カルタ」の後身、日本化した賭博カルタ系の地方札から遡らせて昔のデザインを推定する作業も行ったが、予想したほどの成果はあがらなかった。海外に流出した史料の調査も行った。国内、国外のカルタ史研究の友人たちの協力が大きかった。オランダのライデン市にある「 シーボルト伝来日本資料コレクション 」にある江戸時代後期の日本の賭博系のカルタは「三池カルタ」の系統に属する後世のカルタであるので、再度訪問して以前からの調査の結果を再確認した。ヨーロッパのカルタについても、十七世紀以前のスペイン、ポルトガル、イタリア関連のものをできるだけ広く現地調査した。

結局、図像のデザインは、神戸市立博物館の所蔵する「 天正カルタ版木重箱①[5]の墨摺りの骨刷り資料を基本にし、彩色は、スペイン、セビリア市の「旧植民地公文書資料館」にある1583年頃のスペインのメーカー、 フロレスの未裁断のカルタ表紙(おもてがみ)① と裏紙[6]を基本にすれば、大過なく復元できるであろうという結論になった。神戸市立博物館の「天正カルタ版木重箱」のカルタデザインには上述の疑問があるが、滴翠美術館の「三池住貞次」のカードのサイズやデザインはこれとほとんど同じで、こうしたカルタ札がかつて存在していたことは確認できるので、これを基本とすることとした。

このように、カルタ記念館の設立当時に可能な努力を尽くして決定して復元したのであるが、後世に好史料が出現すれば判断を変えねばならなくなるという懸念は十数年後に実際に現実化した。その詳細は後に扱うのでここでは結論だけに言及しておきたいが、要するにここで復元したモデルは最初期の「三池カルタ」ではなく、その歴史を前期(文禄~慶長、1592~1615)、中期(元和~慶安、1615~1652)、後期(承応~元禄、1652~1704)と区分すれば中期の「三池カルタ」と考えられるようになったのである。復元したものにミスや虚偽があったのではない。こういう「三池カルタ」が存在したことは確かである。ただ、それが日本最古のカルタであるかといえば、そこまでは言えないという判断なのである。


[1] 「古典の遊び 日本のかるた」『文藝春秋デラックス』昭和四十九年十二月号、文藝春秋社、一頁。

[2] 清水晴風、『うなゐのとも』第五編、明治四十四年、一頁。

[3] 江橋崇『もの人間の文化史173 かるた』、法政大学出版局、平成二十七年、四八頁。

[4] 今日では、立命館大学アート・リサーチセンター「藤井永観文庫」の所蔵に帰し、「かるた遊び図」と命名されている。江橋崇、同前『もの人間の文化史173 かるた』、五〇頁。

[5] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、九頁。

[6] Trevor Denning, ”Spanish Playing-Cards”, IPCS, 1980, p.24.

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