六 デジタルな研究手法を選んだ趣旨

さて、今回、このウェブサイトの立ち上げでは、なぜプリント・メディアでの発表ができるのにそれをしないのかを人にも問われたし、自分でも自問自答を繰り返してきた。査読のないウェブサイトは、従来のプリント・メディア中心の学術社会では落書き程度にしか扱われていないのであるから、なぜ好んでそこに沈潜するのか。私の考えは単純で、今の私は、遊技史研究者の小さな世界での地位の確立にはすでに関心がなく、また、この世界での業績公表に際しての査読のレベルについては以前から首をひねってきたからである。公的な研究機関なので査読があるはずの紀要や機関誌、学会誌などでの低レベルに過ぎる審査の例を挙げ始めたらきりがない。仲間庇いの失態隠しの実例も嫌と言うほど見てきた。つまり、既成の学界での評価や地位の確立に役立つ所作などはどうでもいいことなのである。それに、この狭い研究者世界で職を求めるにはもはやあまりに高齢に過ぎるし、年下の研究者の邪魔をする気もない。

私の関心はもっぱら、かるたの歴史の真実を書き残すことであり、それを支える史料を開示して広い利用に供することに尽きる。そして、図像を添えて史料を開示するには、デジタルな方法の方がプリント・メディアよりもはるかに優れている。拡大画面での検討もできるし、プリントアウトも楽である。閲覧者にとってははるかに好都合であろう。これが、ウェブサイトでの発表を選んだポジティブな理由である。研究者世界で共有して活用できる情報のソースの一つにしていただければ嬉しい。

私は、ここまで、重箱の隅をつつくような議論も多く行ってきた。だが、歴史の真理は、重箱の隅に未発見で残されていることが多い。そこを良くつつくことのできない研究者には、真理の神は決して微笑まない。そして多分、コレクションの神も微笑まない。

この半世紀、私はカルタのコレクターでもあった。ここでも幸運な生涯であったと思う。賭博系カルタでは、最初期の木版天正カルタ版木や、ブロンホフ・コレクションにある現存最古のめくりカルタ札の実物を実際に手にして調査することができた。絵合せかるたでは、元禄年間(1688~1704)の花合せかるた、江戸時代中期(1704~89)の手描き花札、江戸時代後期(1789~1854)の木版「武蔵野」など、花合せかるた史の急所になる物品史料で多くの発見があり、また、江戸時代前期(1652~1704)の狂言合せかるたの発見から、芝居遊びかるた、言葉遊びかるたなどの存在を立証できた。トランプでも、明治前期(1868~87)の輸入第一号や明治中期(1887~1902)の国産第一号と思われるものを手にすることができた。その他にも、細かな発見、蒐集は多数ある。余技の様に始めた麻雀牌の蒐集でも、19世紀半ばにあるアメリカ人が自国に持ち帰った牌に次ぐ世界で二番目に古い牌や、最初の日本製である文芸春秋社製の国産一号牌、それに先駆けた対米輸出用品、大日本セルロイド社製の国産ゼロ号牌なども見つけることができた。

私が発見した物品史料の中で、何点かはすでに研究機関に譲った。私は、大牟田市立三池カルタ記念館の仕事を手伝うようになった時から、利益相反を恐れて基本的に自分ではコレクターであることを止めて、同館の蒐集活動に専念したので、平成年間に発見したものは、基本的に同館に渡してきた。世界のカルタ史研究者の間では知られていなかった新発見のものの多くもそうしてきた。中国各地を探訪して蒐集した新発見の紙牌の類は、各種類ごとに三組を購入して、同館に一組を収めたほかに、中国四川省成都市の麻雀博物館、日本の麻雀博物館に譲り、また、大阪商業大学アミューズメント産業研究所の研究叢書第1巻『アジアのカードとカードゲーム』において初出のものとしての全面的な利用を認めた。インドネシア・スラウェシュ島で採取した、ポルトガル伝来のドラゴン・カードの末裔、オミ・カルタも三池カルタ記念館に渡して同館の『図説カルタの世界』で世界で初めて公開した。ネパールのカトマンズで発見した、当時は世界唯一の残存史料であったネパールのガンジファ・カードも渡した。本章扉の紹介画像が初出である。カードの蒐集に付随して進めた麻雀牌のコレクションはすべて麻雀博物館に渡した。その主要な内容は同館の『麻雀博物館大圖録』で公開した。同館の閉鎖に伴い、これは紙牌とともに、現在は中国、湖南省に渡っているが、コレクションとしてのまとまりは維持されて展示されていると聞いている。日本のカルタ、かるた類も多くを三池カルタ記念館に渡した。その中の何点かは同館の『図説カルタの世界』で公開した。そして、なお手元に残っている史料は、このウェブサイトで全面的に公開した。

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