「絵合せかるた」については、山口吉郎兵衛以降にはあまり研究の進展が見られなかった。さまざまな古いかるたが発見され、時には古書店や骨董市をにぎわせはしたが、それを構造的に理解して、各時代の遊技文化史の中に位置づける作業がほとんど見られなかった。「源氏歌かるた」については円地文子、山口格太郎による研究[1]があり、子ども向けの「化け物かるた」については多田克己による研究[2]があり、「花合せかるた」については村井省三の研究[3]があったが、いずれもその種類のかるたに集中した研究にとどまっていた。その中にあって「いろは譬え合せかるた」については、鈴木棠三[4]、森田誠吾[5]、池田弥三郎[6]、戸板康二[7]らの研究があり、歴史的な経緯がある程度はわかるようになったが、そこに焦点が集まったことの反作用でそれ以外の「絵合せかるた」は付録として散発的に取り上げられるだけになり、さらには、平成年間(1989~2019)に入ると、実社会では「いろは譬え合せかるた」は沈滞して売れゆきも衰え、それ以外の、キャラクターかるたや郷土かるたが圧倒的に人気を得たのに、研究者だけが三十年以前の研究関心を脱することなくそのまま踏襲して、「いろは譬え合せかるた」中心主義はその程度をさらに強め[8]、この伝来のかるたと新しい教育系かるた、キャラクターかるたという多様な「絵合せかるた」を現代社会で構造的に理解するように正面から取り上げる研究が沈滞した。

私は、昭和五十年代後半(1971~75)から各種の「絵合せかるた」の蒐集を始め、先人の研究の成果に学び、時には研究の先輩に直接に会って教えを受ける機会をつとめて持つようにしたが、当時支配的であった「いろは譬え合せかるた」中心主義の歴史像には不満があり、それを乗り越えるために蒐集に熱を入れた。当時は、古書店や骨董市などでは、「いろは譬え合せかるた」以外の種類の「絵合せかるた」では、昭和後期(1945~89)のキャラクターものでさえ購入の意欲を示すのはほとんど私ひとりであった。その結果、私の手元に何点ものかるたが集まった。教育系のカルタについては、そもそも骨董市に登場することもなく、私が、製造元の各社に一社ずつ連絡、訪問して事情を取材し、デッド・ストックとなっているその会社製のかるたを分けてもらっていた。また、他の研究機関、博物館、蒐集家などがたまたま散発的に所有するかるたを見る機会も増えた。

こうした中で、私は徐々に通説とはまるで異なる歴史像を持つようになった。江戸時代から現代まで、いろはかるたは多彩に存在していることをかるた札そのものから教わった。こうして蒐集したいろはかるたの中で、昭和後期のいろはかるた群は、一千組を超えるキャラクターかるたや数百組の教育系かるたのすべてを大牟田市立三池カルタ記念館に渡した。明治、大正、昭和前期の多彩なかるた類も渡した。これらは同館(現・大牟田市立三池カルタ・歴史資料館)の倉庫に展示保存されており、機会があれば展示されて来館者に紹介され、この時期の子どもの遊びの文化事情の推移をありありと物語っている。

また、私は、平成二十七年(2015)十一月に上梓した『ものと人間の文化史173 かるた』(法政大学出版局)で、江戸時代の「絵合せかるた」の歴史について、既存の理解に異議を申し立てる問題提起を行った。それは、「絵合せかるた」が江戸時代後期までに子どもの遊技用品に特化して「いろはかるた」に変身したという従来の認識に対してその全面的な再検討を求めるものであった。江戸時代には、実は「いろはかるた」は大人向けの遊技具として有力に存在していたことを理解しなければいけない。この異議申し立てにおいて、私は、自己の主張を裏付ける積極的な論拠として、「ことば遊びかるた」と「芝居あそびかるた」に焦点を集めていくつかの初出の実例を示して言及した。この二つの類型の「絵合せかるた」こそ、江戸時代の大人向けの、特に大人の女性向けの遊技具の花形であったからであり、これの黙殺がかるた史の把握における誤解と混乱を招いていると思うからである。

ただ、同書は一般書であるので全体のスペースに限界があって、これらを詳細に論じることができなかった。そこで私は、まず「ことば遊びかるた」について遊戯史学会の平成二十七年(2015)春季の研究総会で詳細に報告して、それを同学会の学会誌『遊戯史研究』第二十七号[9]で発表した。そして、残された「芝居遊びかるた」について人形玩具学会の研究会で報告し、学会誌『人形玩具研究―かたち・あそび―』第二十六号[10]で発表した。こうして研究発表とデータの提供を積み重ねることが、現状は卑俗な解説書、入門書[11]の域にとどまっているかるたの歴史像を学術の世界に取り戻し、学として発展させる必要条件であると考えている。     

江戸時代後期(1789~1854)、幕末期(1854~1867)から明治年間(1868~1902)には、「ことば遊びかるた」[12]と「芝居遊びかるた」[13]を中心に、広範囲に大人向けのかるたが制作、流布されていた。江戸時代にはこの種のかるたは多彩に存在していたが、「ことば遊びかるた」には「すいことばかるた」「地口かるた」「謎なぞかるた」などが現れた。文芸色の濃いものとして、「狂歌かるた」「俳諧かるた」等も現れた。「芝居遊び歌留多」には「役者絵かるた」「筋書かるた」「声色かるた」などが現れた。だが、その他に、「忠臣蔵かるた」「義士かるた」「武者かるた」「百貨合せかるた」「化け物かるた」「外国語かるた」なども盛んであった。森田誠吾に言わせれば[14]「いろは語順による、各種のかるたの洪水」が起こり、「なんでもかでも手あたり次第に四十八枚に盛り込む」ようになったのである。

異議申し立ての第二の柱は、「いろは譬え合せかるた」そのものに関する歴史認識の誤りの指摘であり、それの訂正を迫ることであった。「いろは譬え合せかるた」について、それが京都起源で江戸時代前期(1652~1704)から存在していた「譬え合せかるた」を駆逐し、江戸時代後期(1789~1854)に江戸に入って「犬棒かるた」となって流行したという俗な通説を否定し、①「譬え合せかるた」にしても「いろは譬え合せかるた」にしても、大坂が起源であり、京都起源説は歴史史料に欠けるものであり、昭和後期(1945~1989)、平成期(1989~2019)になってから、京都の任天堂、大石天狗堂などのかるた屋が「京かるた」という新商品を売り出して「いろはかるた」の市場への参入を図った際に、その宣伝に権威付けしたくて考え出した架空の歴史物語であり、そうした企業の販売戦略に鈴木棠三や吉海直人が加担して実話のように学術として語っているが、実態は歴史上の実体が存在しない幽霊のような宣伝文句であること、②江戸時代前期(1652~1704)からの「譬え合せかるた」が新案の「いろは譬え合せかるた」の出現によって人々に捨てられて消滅したという鈴木棠三に始まる説は誤解で、「譬え合せかるた」は江戸時代後期(1789~1854)になっても江戸でも上方でも十分に流通しており、「譬え合せかるた」と「いろは譬え合せかるた」の関係は、後者による前者の駆逐、交代ではなく、共存、併用、競争であったこと、③江戸での「いろは譬え合せかるた」は多くの種類があり、その中から「犬棒かるた」が勝ち上がって代表的なものとして支配的になったのは江戸時代後期の後半(1830~54)ないし幕末期(1854~67)であること、を主張した[15]

もう一点、私が主張したのは「花合せかるた」の歴史像の全面的な書き直しである。これはそれ以前から機会があるたびに発表してきたものであるが、①「花合せかるた」の起源は元禄年間(1688~1704)にさかのぼること、②これは、元来は上流階級の女性や子ども向けの手描きの遊技具であり、③その後広く社会に普及し、文化年間(1804~18)には木版かるた「武蔵野」も登場したが、その後も博奕の用具ではなかったこと、④江戸時代に「花合せかるた」を博奕に用いて処罰された例はほとんどまったく存在しないこと、を指摘した。あわせて、⑤幕末期(1854~67)から明治前期(1868~87)に「花合せ」改め「花札」が博奕に用いられるようになったので、江戸時代前期(1652~1704)から伝来の賭博用のカルタ、とくに江戸で大流行した「めくりカルタ」は影を薄くして地下に潜ったという従来の通説もまったく史実に反することも指摘した[16]。これは、明治三十年代(1897~2006)の清水晴風以来の確立した通説を根底から覆す主張であった。

一方で、いくつかの種類の「絵合せかるた」については、蒐集と研究は進めていたものの、それをまとめて公表する機会に恵まれていなかった。当時とくに気になっていたのは、①「ことば遊びかるた」の一種であるが、「英和かるた」や「和英かるた」のような外国語を主題とするかるた、②幕末期(1854~67)に京都で「道斎かるた」と呼ばれるようになり、明治時代(1868~1912)になっても生き残っていた「譬え合せかるた」、③後に明治時代(1868~1912)以降の「ガラ札」につながる「百貨かるた」、④江戸時代には盛んであったが、明治中期(1887~1903)に消え去った「武者かるた」、⑤江戸時代から現代まで変わらぬ人気を保っている「化け物かるた」などの紹介である。最近になって、私は、「絵合せかるた」について一般書でも、学会報告でも発表する機会を得た[17]が、かつて江戸の社会を中心に存在していた「絵合せかるた」の豊かな内容を紹介するには余裕がなく、とくにこの「外国語かるた」、「道斎かるた」、「百貨かるた」、「化け物かるた」、「武者かるた」などについては、原稿は書いたものの掲載する紙幅が足りず、結局大部分を保留しなければならなかった。そこで、この際、これらについてここで扱いたい。


[1] 円地文子、山口格太郎『源氏歌かるた』、徳間書店、昭和四十九年。

[2] 多田克己『江戸妖怪かるた』、国書刊行会、平成十年。なお、多田は「妖怪かるた」と呼んでいるが、江戸時代は押しなべて「化け物かるた」ないし「おばけかるた」であり、これを「妖怪かるた」と呼んだ例を多田以外には知らない。

[3] 村井省三「日本の賭博かるた・明治の花札」『別冊太陽いろはかるた』、平凡社、昭和四十九年、一六〇頁。同「新年座談・日本かるた噺」『季刊江戸っ子』十七号、アドファイブ出版局、昭和五十三年、二八頁。同「カルタあれこれ」『嗜好』四百八十四号、明治屋本社、昭和五十七年、四二頁。同「花合わせに見る四季の花」『盆栽世界別冊・花の手帖』、樹石社、昭和五十八年、三一頁。同「カルタ恋歌」『目の眼』八十四号、里文出版、昭和五十九年、六〇頁。同「カルタの始まりとその流れ」『歌留多』、平凡社、昭和五十九年、四五頁。

[4] 鈴木棠三『ことわざ歌留多』、東京堂、昭和三十六年。同『今昔いろはカルタ』、錦正社、昭和四十八年。

[5] 森田誠吾『昔いろはかるた全』、求龍堂、昭和四十五年。同『いろはかるた噺』、求龍堂、昭和四十八年。同「京の夢 江戸の夢いろはかるた考疑」『別冊太陽いろはかるた』、平凡社、昭和四十九年、五七頁。同「いろはかるたの流れ」『歌留多』、平凡社、昭和五十九年、二二一頁。

[6] 池田弥三郎、檜谷昭彦『いろはかるた物語』、角川書店、昭和四十八年。

[7] 戸板康二『いろはかるた随筆』、丸ノ内出版、昭和四十七年。『いろはかるた』駸々堂ユニコンカラー双書三十一号、駸々堂出版、昭和五十三年。

[8] 時田昌瑞『岩波いろはカルタ辞典』、岩波書店、平成十六年。同『いろはカルタの文化史』生活人新書129号、NHK出版、平成十六年。

[9] 江橋崇「消えた『ことば遊びカルタ』の謎」『遊戯史研究』第二十七号、遊戯史学会、平成二十七年、八〇頁。

[10] 江橋崇「『芝居遊びかるた』の成立と展開」『人形玩具研究』第二十六号、日本人形玩具学会、平成二十八年、九八頁。

[11] 時田昌瑞『岩波いろはカルタ辞典』、岩波書店、平成十六年。『いろはかるたの文化史』(NHK生活者新書第一二九号)、日本放送協会出版、平成十六年。吉海直人『「いろはかるた」の世界』(新典社選書第三三号)、新典社、平成二十二年。

[12] 江橋崇「消えた『言葉遊びカルタ』の謎」『遊戯史研究』二十七号、遊戯史学会、平成二十七年、八〇頁。

[13] 江橋崇「『芝居遊びかるた』の成立と展開」『人形玩具研究 かたち・あそび』二十六号、日本人形玩具学会、平成二十七年、九八頁。

[14] 森田誠吾、前引注5『昔いろはかるた全』、一一〇頁。

[15] 江橋崇『ものと人間の文化史173 かるた』、法政大学出版局、平成二十七年。

[16] 江橋崇『ものと人間の文化史167 花札』、法政大学出版局、平成二十六年。

[17] 前引注15『ものと人間の文化史173 かるた』、平成二十七年。

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