「図②:江戸初期、前期のかるた、持統天皇絵札全調査」
「図像③:『百人秀歌』と『百人一首』の「天智天皇」と「持統(綩)天皇」

ここに掲出した論文は、二〇二三年九月に、一般社団法人「日本人形玩具学会」の学会誌に投稿した原稿です。これについては、「2024/02/24 16:57」というタイミングで、学会誌編集委員会より、メールで落選の通知がありました。以下に掲載します。

江橋 さま
お世話になっております。学会誌編集委員会です。
この度のご投稿につきまして、お返事が遅くなり申し訳ございません。お送りいただきましたお原稿の査読中、内容の一部が既出のWEB記事と重複していることがわかりました。WEB記事等で発表済みの情報を踏まえ論を新たに発展させる場合は、既出情報であることを文中に明記したうえで、新たな原稿を次号以降、再投稿してください。よろしくお願いいたします。
一般社団法人 日本人形玩具学会 学会誌編集委員会 jidtrainfo+journal@gmail.com

要するに学会は、私の論文の一部に、すでに私が主宰するウェブ上の「日本かるた文化館」で私の名前で発表済みの原稿と重複している部分があるのにその旨の記載がないので今回は落選として、「既出情報であることを文中に明記したうえで」、次号以降に再投稿するようにという判断をしたということです。

学会誌が投稿論文について査読委員会で審査し、その内容にすでにネット上で公表されている他者に著作権のある文章や画像が権利者に無断で転載されている場合に、その部分の補正ないし訂正を求めることはごく普通の手順です。しかし、今回の場合は、活字情報にしておこうとして応募した論文で、私に著作権があるネット上の情報を読者の幸便のために私自身が転用したものですから、著作権侵犯が問題になる無断転載、剽窃とはまったく無関係であることは明らかです。問題は、その部分の記述につき、ネット上に既出である旨の注記を付けていなかったという軽微なミスです。そして、私が二〇二四年三月に刊行を予定している次号の学会誌にこの論文を投稿したのは二〇二三年九月の応募締め切りの時期でして、通常、三カ月程度はかけている審査の時期を過ぎても何の連絡もないので不審に思っていましたが、提出後六カ月も経過し、もはや注記を一件補正して再提出しても学会誌の刊行に間に合わない、発行予定日の一カ月前、学会誌の印刷、刊行というギリギリの時期まで遅延して上記の落選通知をいただいたのですから、こんな簡単なことなら、もっと早くに「要再提出」と決定してご連絡いただければ直ちに補正して再提出できたのに、と学会の真意がいささか不審ではありましたが、学会の事務方にはそれなりのご事情もお有りでしょうからと、了解しました。

私は、昭和五十年代から「百人一首かるた史」の研究を進めており、その過程で、江戸時代初期、前期のかるたでは、歌順二番「春過ぎて……」の作者は、「持綩天皇」(これを「じえんてんのう」と読んだ実例がある)と表記されていることに気付きました。そこで調べてみたところ、江戸時代初期、前期のかるた札の書家が手本としたであろう本阿弥光悦の刊本、角倉素庵の刊本などは概ねこの「持綩天皇」という表記で、さらにさかのぼれば、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代の手書きの「百人一首」巻子も、一部の二條流の宮廷歌人は別として、概ねはほぼこの表記であることが分かりました。とくに大事なのは、京都、冷泉家の時雨亭文庫に残る『百人一首』ないし『百人秀歌』の作者と言われる藤原定家ご本人の書跡や、宮中で公式に作成された同時代の『新古今和歌集』の古い時代の写本がほぼすべて「持綩天皇」であることで、「持統天皇」という表記は、私には、南北朝時代以前の古い写本には見出すことができませんでした。

つまり、「持統天皇」という表記は、室町時代後期に、それまで鎌倉時代からずっと「持綩天皇」と表記してきた冷泉流宮廷歌人と対抗していた、九条西実隆や細川幽斎などの二條流宮廷歌人らが好んで使い始めた呼び名でした。彼等は、二條流に伝わるこの表記がこの流派が藤原定家の後を継ぐ正統の後継者であることを証明する呼称で、「持綩天皇」と呼称する冷泉流は定家の流派を継承する者ではない傍流であり、定家の遺品が残されている冷泉家の「時雨亭文庫」にある定家自筆の「持綩天皇」と表記している文献の類は出自が怪しいとしました。

このことを主張する仕掛けとして二條流が用意したのが「百人一首伝授」という御子左家に儀礼的な秘伝の伝授です。この仕掛けを理解するには、そのモデルになった「古今伝授」について知っておく必要がありますので、ここでちょっと脱線してそれについて触れておきます。

和歌の道の本家、御子左流には、「古今伝授」という重要な儀式がありました。御子左家では、藤原俊成、藤原定家、藤原為家と一子相伝で伝わりました。そして、御子左家には、「古今伝授の函」があり、そこには同家に伝わる古今和歌集の解釈、研究の書の類が収められていまして、その木箱一箱は、門外不出であるのみならず、正統な後継者であっても、一生に一度だけ、襲名後に、これを開いて収められた文献史料を読み、学ぶ機会が与えられ、二度と見ることは許されないし、後継者以外の門下の歌人たちは近づく機会もないという、まさに秘伝でした。そしてそれは、他の定家の遺品と同様に京都の冷泉家に伝わり、「時雨亭文庫」に秘蔵されており、明治二十九年(1896)以降には一度も開けられたことがなかったのですが、最近学術調査のためにそれを開いて内容を調査しましたところ、なんと、とっくに失われていたと思われてきた藤原定家自筆の「古今和歌集」の注釈書、『顕注密勧』の原本が残されていました。国宝級の文献史料の発見でして、関係者は大騒ぎです。

冷泉家がこの秘伝を所持していることは、御子左流の和歌の道の正統な後継者を冷泉家と争ってきた二條流にとっては大打撃です。そこで二條流は、もう一つの秘伝を考案しました。それが「百人一首伝授」です。これは、二條流の後継者にのみ伝えられる百人一首の解釈でして、「百人一首」は、南北朝時代に「百人一首」という、それまで誰も知らなかった歌集を二條流の頓阿が「発見」、つまり「捏造」したものですから、歴史的な史料は、南北朝時代止まりで到底鎌倉時代中期、藤原定家には届かないのですが、二條流には多少はあります。それを基に、室町時代に、「百人一首伝授」という儀式が創作され、二條流盛り返しの秘策に使われたのです。

そして二條流にとって幸運だったのは、当時の後水尾天皇が、二條流の宮廷歌人に「百人一首伝授」という、室町時代以降にこの流派に伝わる怪しげな秘伝を教えられ、次いでご自身が宮中に公家を集めてこの二條流の「百人一首伝授」を教え、その席で、「持統天皇」と表記し、「じとうてんのう」と表現しました。このとき、天皇の権威によって、「持統天皇」が正統になり、その後、二條流の勢いが盛り返すようになると、当時の社会に徐々に普及する一方で、「持綩天皇」という表記は異端になり、偽書の証しになり、これ以降は、「百人一首」史においても、「百人一首歌かるた」史においても衰退していきました。元禄年間までにはほぼこの転換が完成したという経緯があります。

ところで、まれにですが、室町時代以前の文献史料とされるもので「持統天皇」と表記されている文献があります。いちばん凄いのは、二條流に伝わる、藤原定家の息子、藤原為家筆とされる『百人一首』本です。藤原為家は鎌倉時代の人ですから、その人が書いた文献に「持統天皇」という表記があるならば、私の仮説など吹っ飛んでしまいます。しかし、現在残されているのは、江戸時代後期の写本で、仮に藤原為家が本当に『百人一首』という歌集を書いたとしても、原本は残されておらず、それがその後、何人の手で写し取られてその「写本の写本の写本」が今日に伝来しているのでして、江戸時代に入ってからの写本の筆者、あるいは史料贋造の作者が、その時期の常識のままに「持綩天皇」を「持統天皇」と誤読し、誤写ないし誤記した可能性は到底否定できません。つまり、江戸時代の写本に「持統天皇」とあることは、鎌倉時代に藤原為家が「持統天皇」と書いたことや、南北朝時代及び室町時代に人々がそう書いたということの証明には到底ならないのです。また、「百人一首歌かるた」でも同様で、江戸時代前期のかるた札でも二条流の和歌を学んだ書家が書いたものは「持統天皇」です。江戸幕府の五代将軍綱吉に嫁いだ京都、鷹司家の姫、信子が残した「淨行院様御遺品かるた」は、お輿入れの際にお持ちになったものでしょうが、二條流の歌学を受け入れていた実家の家風そのままに「持統天皇」です。また、江戸時代中期以降のかるた札や教本では、おしなべて「持統天皇」という表記になっています。

私は、以上の発見と研究を元に、今回日本人形玩具学会に提出した論文を作成し、親しい研究者仲間には披露するとともに、ネット上でも公表しました。今やAI文化の時代でして、多くの人が、ネットで情報を捜しますので、その人が眼にした文書史料には史料そのものには「持綩天皇」と表記されているのに、それが「持統天皇」と誤読されていて、それを不審に思ってAIに尋ねても、まだ「持綩天皇」という言葉自体がネット上の情報になっていないので「そのような情報はございません」と門前払いされているのも気の毒だと思い、せめて私の指摘一件でもAIから返答されるようにと思い、印刷情報にする以前にネット情報にして掲載しました。

私は、この問題が恐ろしく広範囲の影響をもたらすものであることは承知しています。明治時代から今日まで、室町時代以前の『新古今和歌集』や『百人秀歌』あるいは『百人一首』を扱ってきて活字本を著してきた国文学史の研究者の多数が、文化勲章受章者も人間国宝も、私程度の素人でも読めた「綩」という文字を読めなくて、勝手に「統」という文字の崩し字と誤解して「持綩天皇」とある原典を「持統天皇」と誤読、誤記してきたことになります。ことは日本の歴史上でも重要な位置を占める天皇を国文学史の学界総ぐるみで呼び間違えていたということですので、不敬にあたるかどうかという議論はさておくとしても、歴史学の展開にとっても大きな影響をもたらす誤記、誤読でして、相当に大ごとです。

たとえば、これは落選論文でも触れたことですが、明治末期に「宮内省図書頭」森鴎外は、歴代の天皇の死後に、生前の業績に応じて付けられる「諡号」(しごう)と「元号」の研究とその成果の公表に着手しましたが、その成果物『帝諡考』においては、中国の古典籍に「継体持統」という四文字熟語がありまして、それが日本に入って、「継体天皇」と「持統天皇」は、天皇家の血筋に基く帝位の世襲を確立した功績でこの名になりましたという説を唱えました。これは、一見いかにもそれらしく見えますが、江戸時代以降の学者による後づけの理屈です。鷗外も、自分の学説がこんな、当時からすれば近過去にすぎない江戸時代後期以降の御用学者の誤読、誤記の上に成り立っていたと知れば、おのれの非才にさぞかし落胆したことでありましょう。

私は、江戸時代の元禄年間以降の三百年以上もの長期間に、日本社会で、「持統天皇」という表記が通用してきた歴史的事実を否定したり無視したりするつもりはありません。したがって、この時期に「持統天皇」と表記してきた厖大な史料や研究書の是正を求めるつもりもありません。これはもう日本史学、国文学史の歴史の一部になっているのです。明治時代以降の活字本での誤字もそれが当時の日本の学界の水準だったのだと思えばそれまでの話です。しかし、こういったからといって、室町時代以前については別問題です。平安時代から室町時代までの五百年もの長い期間、人々は「持綩天皇」と表記し、「じえんてんのう」と呼んでいたと思われます。それを、当時の人が、「持統天皇」と表記し、「じとうてんのう」と呼んでいたとするのは、十九世紀以降の国文学史の権威たちが犯した歴史の改ざんになります。ですので、今後の国文学史の研究においては、室町時代以前の史料文献を読むときは注意して読み、「持綩天皇」を「持統天皇」と誤読したり誤記したりしないことを願うのみです。今後は史料改ざんの罪を重ねるな、ということです。

厳密に言えば、今流通している関連本の出版社は訂正の処置をとるか、改訂版に改めるべきところでしょうが、それも現下の出版事情では無理な注文です。しかし、「過ちを正すことに憚ること無かれ」ですし、今は研究の世界もデジタル化の時代です。私は、明治初年以来の活字の公刊物を今さら改訂せよ等と思ったことはありませんが、デジタル化の時代ですから、国文学史の古典や重要史料もデジタル化されるのでして、誤記を訂正する好機です。その意味では、誤って「持統天皇」とされている歴史史料に本来の「持綩天皇」という表記を、まずはデジタル情報の世界で復元して、活字世界での誤情報に交代させてあげるのもいい先祖供養かなと思っています。出版各社の英断を期待しています。そして、関連する学会も、恐れずこの問題提起を掲載してくださることを期待しています。

以上でして、ネット上で情報を発信する趣旨で、ここに掲載させていただきます。今回のトラブルは、日本人形玩具学会の会員の日ごろの研究活動への参加の状況からすると、そんなに数は多くないと思いますが、会員のうち、自分の日常的な研究の関心とは別の世界での研究にも関心があり、しかし、自分の回りにネット環境が存在しなくて、ネット上の研究成果の発表やそこでの学術の交流に参加できない主として高齢の会員に、学会誌という紙媒体で情報を提供しようとした、私の気遣いに端を発しています。学会誌編集部はあまりそのような必要性をお感じではないようなので、余計なお世話だったのかと反省しています。すでにネット上では、既発表の論文につき、多数の方からのアクセスをいただいており、ご意見も頂戴していますので、不掲載は論文公表の機会という点では障碍にはなりません。ですので、ここでは、単純に、起きたことの経過をそのまま書いただけだとご理解くださると幸いです。


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