めくりカルタ遊技図(『下手癖永物語』、天明三年)
めくりカルタ遊技図
(『下手癖永物語』、天明三年)

山東京伝の『寓骨牌』よりも少し早く天明三年(1783)刊の井久治茂内作の黄表紙『下手癖永物語』[1]も京伝の作品に匹敵するめくりカルタ趣向の傑作である。「太鼓の二」と「おキリ」が駆け落ちしたところ、「おキリ」に懸想していた「アザ」が立腹し、「青二」「釈迦十」「青九」「青八」らと語らって「太鼓の二」を見つけて、「青二」がさんざんに踏んでしまう。「太鼓の二」を失って一人残された「おキリ」は「海老二」を頼り「六衛門」(青六)を頼り「赤六」にも助けてもらいながら敵(かたき)の「アザ」のありかを探すと「青五」がやってきて、「アザ」は浅草で乞食の格好で潜んでいると教えてくれたので発見できた。「海老二」らは「アザ」を捕らえようとして色々味方を集めるが、「アザ」にも強い札の多くが味方していて、両者が激突するところに「鬼札」の「鬼衛門」が現れて「鬼」の術で「太鼓の二」を復活させて両者恨みっこなしの「あつかい」になった。途中で「切見世」に姿を現した「おキリ」を「スベタ」ども(図像は「スベタの三」と「赤八」)が我も我もと見に来る場面もあり、「赤」の札があるので四十八枚組みのめくりカルタのカードが総出演の賑やかさである。江戸でのめくりカルタの大流行の様子がしのばれる。

 めくりカルタを燃やす芸者(『咲分論』、安永年間)
めくりカルタを燃やす芸者
(『咲分論』、安永年間)

この流行の余波で、江戸の色町では芸者遊びが繁盛しなくなった。この世相を冷やかすように安永年間(1772~81)末期に書かれたのが竹窓(竹内玄玄一)『咲分論』[2]である。まずお座敷がかからなくて暇をもて余す芸者が登場して、江戸の夏は隅田川の川船に芸者を呼んで賑やかに楽しむのに、近頃は「めくり合」が流行り、舟中でこれを楽しむのに芸者はかしましいとして呼ばずに、小坊主一人に酒の支度をさせ、永代大橋や両国橋の下の橋杭に船を繋ぎ、あるいは御船蔵前や三めぐりの人気もない芦の中に潜んで、専ら勝負事に耽るので、芸者を雇うことが絶えたと嘆き、手元にある使い古しのカルタを火鉢の火にくべて悪口雑言を述べ立てる。すると、その煙の中から「青馬」にまたがり「青二」の直垂を着した「大将」が立ち現われ、芸者商売の堕落を批判したうえで、めくりカルタがいかに天地の理にかなったものであるかを主張する。この主張の内容はめくりカルタの用語を無理にこじつけたものの羅列で意味がないが、そこにめくりカルタ関連の言葉が多数取り上げられているので、このカルタ遊技の輪郭が分って面白い。具体的には、「持ちたる札」「下タのめくる札」「一人寝二人にて打つ」「合せて取る」「黒札に蒔く(黒裏を上にして蒔く)」「手に持てめくる」「黒札をめくり十と知り蠇(あざ)と知る」「三ツになる」「めくり座の丸きを用る」「七枚ヅゝ三人へ蒔き」「場ともに四七二十八」「四ツまき」「場とも五七三十五枚」「めくり札十三枚」「場を七枚に蒔く」「親の點石」「ばんこ」「相手の點石」「割返し」「金札」「碁石の白黒」「四人にて初(はじめ)る」「箱を入り五人にて打つ」「出ル度負け」「畫附(つか)ず」「流れ込を待つ」「割返し」「悪畫をかつぎ出し」「三ッにされ」「全く負ルハ知れたれども寝ぬ」「點をかけ合ふ」「大引」「よき畫のふりをして」「番子」「畫の附(つか)ざる時」「釈迦をめくり」「よき畫にて負」「青馬」「青切」「五四」「大引の割廻し」「木どるの箱じやの」などである。「青」の大将は、その後に再度芸者の悪口雑言を述べて姿を消すという筋立てである。ここに登場するめくりカルタ用語は多くがその後明治年間(1868~1912)にまで伝承されており、その一つ一つがめくりカルタ遊技の特定の場面を適切に表現していて、遊技の展開される様子がよく理解できる。「箱を入り五人にて打つ」(主催者も入れて五人での遊技にする)、「全く負ルハ知れたれども寝ぬ」(まったく負けると分かっているのに降りないであえて勝負に出る)などという遊技展開上の機微はこの書を読んでリアルに理解できた。

煙から現れた「青のウマ」(『咲分論』、安永年間) (1)
煙から現れた「青のウマ」
(『咲分論』、安永年間) (1)

このように『咲分論』は重要な史料と評価できるが、それを模倣したのがすでに見た安永七年(1778)刊の『お花半七開帳利益札遊合』[3]である。本書は作者が「者張堂少通辺人」、画工が北尾政演(山東京伝)であり、作者も京伝であるかどうか、『咲分論』との関係はどうかなども詳細に研究されている[4]。また、天明元年(1781)刊の随羅斎『当世繁栄通宝』[5]でも同工異曲でめくりはこじつけで天地の理にかなうとされている。ここにそれを繰り返しても意味は薄いが、こじつけ論の冒頭に「それ天正ハ」の「天正」に「めくり」と振り仮名を付けていることが上方の「天正」と江戸の「めくり」の関係を示唆するとして以前から注目されている。また、『咲分論』は「鬼札」に触れることがなかったが、『当世繁栄通宝』には「一より十二まてハこれ月のかすなり鬼を添るハ壬也」と書かれている。『百安楚飛』と共通しているがこの辺に本書の多少の史料価値があるのである。


[1] 井久治茂内『下手癖永物語』、天明三年、国会図書館蔵本。

[2] 竹窓(竹内玄玄一)「咲分論」『洒落本大系』第四巻、林平書店、昭和六年、一八頁。

[3] 山東京伝、前引注10「お花半七開帳利益札遊合」、『山東京伝全集』第一巻、一六頁。

[4] 水野稔「京伝の処女作『開帳利益札遊合』」『江戸小説論叢』、中央公論社、昭和四十九年、一六〇頁。

[5] 随羅斎「当世繁栄通宝」『洒落本大成』第十一巻、中央公論社、昭和五十六年、五八頁。

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