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四 石川啄木 幸徳秋水 獄中からの手紙

さて、吉海の「百人一首かるたの研究(その2)」は、この幸徳秋水の文章の紹介に続けて、石川硺木の一文を紹介している。吉海曰く。「石川啄木の『A LETTER FROM POISON』(明治四十四年(1911)五月)に、幸徳秋水の『歌牌の娯楽』について、次のように記されていたので、参考までに挙げておきます。」である。『獄中からの書簡』(A LETTER FROM PRISON)が『毒薬からの書簡』(A LETTER FROM POISON)に化けているのには大笑いしたが、それはさておき、このスペルミスも含めて吉海のずさんな仕事ぶりが目立つ。

まず第一に、硺木の文章の表題は『 ‘V’ NAROD’ SERIES A LETTER FROM PRISON』 (ヴ・ナロードシリーズ、獄中よりの書簡)であって、『毒薬からの書簡』でないのは笑い種だが、『A LETTER FROM PRISON』も表題の一部であって全部ではない。初出の『性急な思想』に掲載されたときの表題も ‘V’ NAROD’ SERIES A LETTER FROM PRISONである。これを短縮したのは、もう少し後の時代、自分たちは未熟なプチブルで「ヴ・ナロード(人民の中へ)」と主張したナロードニキではなく、正統な科学的社会主義、マルクス、レーニン、スターリン主義のボルシェビキであることを自負していて、プチブル急進主義の臭いのする「ヴ・ナロード」という言葉にも敏感な反感を示し、人気のある詩人で無政府主義者である硺木のナロードニキとしてのイメージを薄めてボルシェビキ、共産主義者の先覚者らしく装って売り込みたかった、全集物の左翼系編集者であろう。読者の中には吉海のように「ヴ・ナロード」を消した改題を信じて原題だと思う者が出てきたり、石川硺木って共産党の先駆けの詩人でしょうなどと理解する者が出てきたりしたのだから、無政府主義者色を希釈する試みの狙いは外れてはいない。こんなことは原文を一目見れば分かることである。吉海はなぜこういう旧左翼に加担して追随するのか。そもそも吉海はいつ硺木の原文を見たのだろうか、本当に見たのだろうかといぶかしく思う。吉海は資料を紹介するときに典拠を示さないという悪癖を生涯改めていない。だから、原著を読まないで適当なものをコピペしたり、自分で転記したりしているのではないかという疑いが消えない。

また、例えば、硺木の文章の中での「写し取つて置いた」が「写し取っておいた」になり、「終わつた後」が「終わった後」になり、「掲げてあつたこと」が「掲げてあったこと」になっている。こんなに促音便の表記を乱発する現代文法を交ぜて、明治期文章の味を壊してはダメでしょうよ。「ペンを走らしていると」というやや砕けた表現が「ペンを走らせていると」とかしこまり、「歌加留多の讀声が」が「歌留多の読声が」になり、「思ひ出させられた」が「思でひ出させられた」であるのも誤植でしょうけど注意力散漫で困ったことである。

吉海の仕事では、「新出資料の紹介」とされるものが多いが、典拠を示さない上に、肝心の紹介の部分に誤記、誤植が多くて、到底、学術情報としては使えないことが多い。私は、吉海が若い頃から何回かこのことを指摘してきたが、一向に反省してもらえていない。最新の例で言うと、吉海は、この「百人一首かるたの研究(その2)」の続きの「百人一首かるたの研究(その3)」で啄木の日記に触れ、さらに「百人一首かるたの研究(4)」で、啄木の『鳥影』を取り上げているが、ここでの吉海自身の文章は「石川啄木の『鳥影(ちょうえい)』(東京日日新聞・明治41年)にも、かるた会のことが描写されているので、その箇所をあげておきます。」という二行と、「石川啄木の作品では、、なんだか明治四十一年にかるたのことが集中して出ているように思えてなりません。」という二行、合計四行だけで、啄木の小説の抜粋、引用が六十行であるので、ほとんどコピーという感じである。

だからここでは、引用の正確性が論文の、もしあるとしたらほとんど唯一の学術価値なのだが、明治期の漢字の現代漢字への置き換えは、「洋燈(ランプ)」が「洋灯(ランプ)」に、「智惠子」が「智恵子」に、「靜子」が「静子」に、「氣合が」が「気合が」に、「讀手」が「読手」に、「五囘六囘と」が「五回六回と」になるなど、ほとんど各行毎にあるし、しかし「敏捷(すばしこ)い」、「狼狽(まごつ)く」、「故意(わざ)と」「啣(こぼ)してゐた」などは原文のままになっているし、「したゝか」が「したたか」、「モグゝゞさした」が「モグモグさした」、「オホゝゝ」が「オホホホ」などになっているし、「歌留多会」が「加留多会」に、「書齊にしてゐる」が「書斎にしてゐた」、「聲の限り笑つた」が「声を限り笑つた」、「殆んど同時に」が「殆ど同時に」に、「此方が早い」が「此の方が早い」に、「到頭終ひまで」が「致頭終ひまで」に、「仲々」が「中々」に、「目覺ましかった」が「目覚しかつた」になどと不注意に誤記されているしで、啄木の文章の復刻としての信頼性に欠けるので到底使えない。不思議なのは振り仮名で、原文には「蒸熱くなつた」の「蒸熱」に(むしあつ)と振り仮名があり、「敗けてお遣りよ」の「敗」に(ま)と振り仮名があるのに吉海文では落としている一方で、「軈て」の「軈」には原文にない(やが)が、「嫂」にも原文にない(あによめ)が付けられている。この辺は、勝手気まま、行き当たりばったりの感じで、どういう規準で転記しているのかさえ分からない。

だが、こういうミス以上に問題なのは、吉海の、硺木の文章に接する姿勢であると思う。吉海は、硺木がなぜこの『 ‘V’ NAROD’ SERIES A LETTER FROM PRISON』(ヴ・ナロードシリーズ、獄中よりの書簡)という文章を書いたのか、その動機、主旨、主張についてほとんど考察していない。吉海に代わって私が説明するのも変な話であるが、硺木は、明治四十四年(1911)一月に大逆事件で死刑の判決を下された幸徳秋水が、判決公判直前の前年十二月に書いて弁護人に送った「陳辯書」を受領した弁護人から借用して読んで大きな感銘を受けて全文を筆写し、その幸徳の文章を同年五月に纏めた。その際に、硺木は短い前文と長文のEDITOR’S NOTESを書き添えたのであるが、当時は公表が困難で、結局、後年になって原稿が発見され、昭和後期(1945~89)に『性急な思想』に収録されて公刊され、やっと広く知られるようになった。硺木が幸徳の「歌牌の娯楽」に触れたのはこの前文の中である。その前文は、その全文を引用すればこういう内容である。

 「この一篇の文章は、幸徳秋水等二十六名の無政府主義者に關する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに對する自己の見解を辯明せむがために、明治四十三年十二月十八日、幸徳がその擔當辯護人たる磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。
 初めから終りまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に豫期の如き(豫期! 然り。帝國外務省さへ既に判決以前に於て、彼等の有罪を豫斷したる言辭を含む裁判手續説明書を、在外外交家及び國内外字新聞社に配布してゐたのである)判決を下されたかの事件―あらゆる意味に於て重大なる事件―の眞相を暗示するものは、今や實にただこの零細なる一篇の陳辯書あるのみである。
これの最初の寫しは、彼が寒氣骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとつて獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であつた明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに寫し取つて置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出來ない。ペンを走らしてゐると、遠く何處からか歌加留多の讀聲が聞えた。それを打消す若い女の笑聲も聞えた。さうしてそれは予がこれを寫し終つた後までもまだ聞えてゐた。予は遂に彼が嘗て――七年前――「歌牌の娯樂」と題する一文を週刊平民新聞の新年號に掲げてあつたことまでも思ひ出させられた。西川光二郎君――恰もその同じ新年號の而も同じ頁に入社の辭を書いた――から借りて來てゐた平民新聞の綴込を開くと、文章は次の言葉を以て結ばれてゐた。『歌がるたを樂しめる少女よ。我も亦幼時甚だ之を好みて、兄に侍し、姉に從ひて、食と眠りを忘れしこと屡々なりき。今や此樂しみなし。嗚呼、老いけるかな。顧みて憮然之を久しくす。』
 しかし彼は老いなかつたのである。然り。彼は遂に老いなかつたのである。
 文中の句讀は謄寫の際に予の勝手に施したもの、又或る數箇所に於て、一見明白なる書違ひ及び假名づかひの誤謬は之を正して置いた。」

これが吉海の掲載文では、こうなる。

「明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに写し取つておいたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出来ない。ペンを走らせてゐると、遠く何処からか歌加留多の読声が聞えた。それを打消す若い女の笑声も聞えた。さうしてそれは予がこれを写し終つた後までもまだ聞えてゐた。予は遂に彼が嘗て――七年前――「歌牌の娯樂」と題する一文を週刊平民新聞の新年号に掲げてあったことまでも思でひ出させられた。西川光二郎君――恰もその同じ新年号の而も同じ頁に入社の辞を書いた――から借りて来てゐた平民新聞の綴込を開くと、文章は次の言葉を以て結ばれてゐた。『歌がるたを樂しめる少女よ。我も亦幼時甚だ之を好みて、兄に侍し、姉に從ひて、食と眠りを忘れしこと屡々なりき。今や此樂しみなし。嗚呼、老いけるかな。顧みて憮然之を久しくす』」。

つまり、冒頭と末尾の文章がなぜか削除され、明治期(1868~1912)の文章は妙に現代風の味付けになっているのである。この吉海による削除により、次の事態が生じた。

大事な点なので繰り返す。冒頭の「この一篇の文章は、幸徳秋水等二十六名の無政府主義者に關する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに對する自己の見解を辯明せむがために、明治四十三年十二月十八日、幸徳がその擔當辯護人たる磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。
 初めから終りまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に豫期の如き(豫期!然り。帝國外務省さへ既に判決以前に於て、彼等の有罪を豫斷したる言辭を含む裁判手續説明書を、在外外交家及び國内外字新聞社に配布してゐたのである)判決を下されたかの事件―あらゆる意味に於て重大なる事件―の眞相を暗示するものは、今や實にただこの零細なる一篇の陳辯書あるのみである。
これの最初の寫しは、彼が寒氣骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとつて獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であつた」という文章は吉海によってバッサリと削除された。

これを補う吉海の説明は一切ない。だから、吉海文を読んだ者には、この夜硺木が何をしていたのか、ここで取り上げたものが何なのかが分からない。どれ程優れた読者でも、「明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに写し取つておいたものである。」という文章から、硺木が、幸徳が死刑判決の直後に書いた「死刑の前(腹案)」と合わせて、幸徳の政治的遺書に近い陳辯書の原本を借用して筆写したと理解することはできない。吉海の文章から受ける印象は、これは正月風俗を描写した気軽なエッセイだろうということである。硺木は、そういえば幸徳も、かるた取りが好きという若い女性の意見を聞いて、自分も若いころはそうだったのだが最近はすっかりそこから遠のいている、自分は年取ったなと嘆く、よくありがちなおじいさんの文章を書いていたなと思い出したということだけである。幸徳は、これでも昔はヴイヴイ言わせたものよと自慢するエッチなおじいさんのように見える。

しかし、硺木はこれに続けて「予はその夜の感想を長く忘れることが出来ない。」と書いている。この、はなはだ深刻で、生涯消えないその「感想」とは何だったのか。これも吉海の説明はなく分からない。吉海が掲載しているのは、歌かるた遊戯の発声が聞こえてきて、そこから昔幸徳が書いた小論を思い出したという事実の報告であって、それのどこが「長く忘れることが出来ない」ほどの強烈な「その夜の感想」の描写なのかもさっぱり分からない。

硺木が言う「これ」は幸徳の「陳辯書」であるが、吉海のカット後の掲載文では前述のようにこの文章の主題、主語とでもいうべき部分がカットされてしまったので、いったい何を写したのかが皆目わからない。しかも困ったことに、吉海は、冒頭部分を一文字空けで始めている。常識的には、一文字空けは文節の始まりを意味するのだから、まさかここに大幅な文章の削除が潜んでいるとは分からない。読む者は、これは硺木の完結した一つの文章だと誤解こそすれ、硺木の文章の中途半端なカットから残った吉海作の不完全な部分文章であるとは思いもしない。吉海の掲載から、『‘V’ NAROD’ SERIES A LETTER FROM PRISON』(ヴ・ナロードシリーズ、獄中よりの書簡)という文章は、幸徳が弁護人に送った書簡を幸徳の執筆後十八日目の明治四十四年(1911)一月四日に硺木が書写したものの報告であると理解することはまったくできない。つまり、硺木の文書の主題が不明になってしまったのである。これは学術的な資料掲載の仕方としてはきわめて不適切で、ほとんど無価値なものになっている。

吉海はさらに、文末の一文、「しかし彼は老いなかつたのである。然り。彼は遂に老いなかつたのである。」を削除した。この一文がないと、硺木は、幸徳が命を懸けて心血を注いだ文章を粛然とした気持ちで写している最中に、たまたま正月なので「遠く何處からか歌加留多の讀聲が聞えた。それを打消す若い女の笑聲も聞えた。さうしてそれは予がこれを寫し終つた後までもまだ聞えてゐた。」ということで、若い女性の嬌声に気を取られて、幸徳の悲痛な主張もどこえやら、かるた会の話に頭が動いてしまって幸徳のかるた話に移ってしまったことになる。

硺木はこんな人間だったのだろうか。でっち上げ事件で極刑が予想される先輩同志の裁判終結を目前にして、獄中からの悲痛な叫びを目にして、思うことはかるた会の思い出話なのか。もちろんそんなことはない。硺木は、この文章に、カール・マルクスの共産党宣言にも匹敵する、日本の無政府主義党宣言になりうる価値を認め、そのことを広く社会に伝えたかったのであり、幸徳が、高齢になっても(と言っても若年の啄木から見て高齢なのであって実際は三十九歳で刑死した)、敢然として、その主義のために命を懸けて若々しく当局の不法、不当な弾圧と闘ったことを称えたかったのである。幸徳の文章にはそう感じさせる力量、迫力があったのである。この文章を通じて幸徳の人柄や熱意、その思想、戦いの意欲、そして死生観などを生々しく感じて感銘を受けたことこそが、硺木にとって「長く忘れることが出來ない」特別な「その夜の感想」なのである。

硺木は、これほどの人材に、明治四十四年(1911)一月十八日にでっち上げ裁判の死刑判決の言い渡しがあり、わずか六日後の一月二十四日に処刑されたことへの悲しみと怒りを表明したくて、同年五月、百箇日の法要のように、『‘V’ NAROD’ SERIES A LETTER FROM PRISON』(ヴ・ナロードシリーズ、獄中よりの書簡)をまとめた。この、幸徳への熱い思いを吐露する、当時の内務省による検閲事情では許容される限界に近い、血を吐くような一文を書きたいために、硺木は端的に結論に進まないで、遠回りして「歌牌の娯楽」に筆を及ぼしたのである。そして幸徳自身の言葉を引用することで、「幸徳先生、よくぞ若々しく裁判闘争を闘い抜かれた」という追悼の言葉をすでにあの世に旅立った幸徳本人に伝えたかったのである。

ところが吉海は、この、硺木の文章の肝の中の肝、肝心の部分、硺木の心の叫び、最も伝えたかった主張の文章を削除してしまった。社会運動家の心情が理解できない、まさにノンポリの心無い所業である。吉海がノンポリであることは一向にかまわない。ただ、そういう吉海が、社会運動の最前線に居た人々の気持ちを分かっているかのようなふりをして、「自身の社会主義思想とかるた取りを重ね合わせて綴っている興味深いものです」などと間違いだらけの掲載を上から目線で繰り返すことが、硺木の人格に対する冒とくにしか見えないのである。

「しかし彼は老いなかつたのである。然り。彼は遂に老いなかつたのである」。この、和歌ではないが三十一文字(三十一音ではない)の詩文を削除してしまっては、あたかも和歌を紹介するときに、詞書(ことばがき)を写して、さあ和歌の本文だというところで肝心の和歌本文を無視して終わりにしてしまったようなもので、長文の詞書であればその末尾に付いた、三十一文字で一見付属物の様だがその和歌にこそ主題があるのと同様に、「しかし彼は老いなかつたのである。然り。彼は遂に老いなかつたのである」という三十一文字こそ、万感の思いを込めた硺木の主題なのである。この言葉を消し去る蛮勇は私にはなく、吉海によるこの削除、破壊、硺木の人格へのないがしろな取り扱いにはもはやただ呆れるより仕方がない。自己中心的な切り貼りはいい加減にしてほしいと思う。

これはおまけだが、硺木の文章は、「文中の句讀は謄寫の際に予の勝手に施したもの、又或る數箇所に於て、一見明白なる書違ひ及び假名づかひの誤謬は之を正して置いた。」と、幸徳の文章を引用する際の文章整理の弁明で終わっている。勝手に書き換えたのではないと断っているのである。実際、硺木は幸徳の文章中の多すぎる読点を句点に改めたり、送り仮名を付加したりしている。ところが吉海は、この、先人への敬意を表す硺木の弁明もカットしてしまい、上で指摘したように、吉海自身による硺木の文章の勝手気ままな手直しを行っている。明治期(1868~1912)の文学史研究にとってはとんだフェイク紹介になっており、なんとも困った事態であるが、吉海がこの掲載を発表した所属大学の紀要での、吉海の論文を載せた最後のページには、紙面上にこうした数行の文章を収められる十分な余白があり、そこは空白のままである。だから与えられたスペースが狭隘であったのでやむを得ずに削除したということでもないだろう。硺木の文末の大事な言葉までを削除しなければならない事情は全く想像できない。硺木の心情を思ってもみない自分勝手な掲載文という不祥事は、もっぱら吉海のずさんな仕事のせいで生じているのである。

そもそも、幸徳と硺木をこの文章の関係でつなぐというのはGOOGLEの技である。だが、両者のつながりは政府によるでっち上げ裁判への怒りと悲しみにあり、そこに無政府主義者の心情の交流があるのであり、それを無視して、吉海のように文章の主題とはほとんど関係のない歌かるたのエピソードの字面だけでつなげるのはGOOGLEで検索した際に同一ページに並んでいたというだけのことであり、それをこうして紀要という一応は学術出版物に扱われる紙面に載せるのは、おいおいGOOGLEの受け売りが学術かよということになる。それは勘ぐりに近いのでさておくとして、硺木の作品をこのように文脈、思想、主義主張から切り離して枝葉末節だけにして論じる、いや掲載するのは、仮にも文芸の研究をもって職にしている者の職業モラルに反するのではなかろうか。これはまさにモラルの問題なので、素人の私が偉そうに裁くことではないが、疑問を呈しておこう。

最後にもう一つのおまけとして、私の心中にある根本的な疑問を説明しておこう。それは、啄木は幸徳の文章を筆写していた夜に、本当に歌かるたの讀聲を聞いたのかということである。

吉海は、これを当然のようにまったくの事実と考えているようである。だが、啄木のこの文章は、幸徳の獄中からの書簡を紹介する大論文の前文であり、その主たる内容は紹介に至った経緯の説明である。こうした主旨からすると、歌かるた遊戯への言及は、前後の文脈、本筋からはかけ離れた余話、エピソードである。だから、これを削除して、前文の締めをシンプルに、「これの最初の寫しは、彼が寒氣骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとつて獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であつた明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに寫し取つて置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出來ない。これを一読すれば明らかなように、彼は老いなかつたのである。然り。彼は遂に老いることなく、若々しく、情熱的に、抑圧的な権力と闘い抜いたのである」としても十分に主旨は生きる。いや、その方がすっきりしている。

それなのに啄木は、わざわざ話題を政治的弾圧と無関係な歌かるた遊戯という正月の時節ネタに転換させ、そこから幸徳の歌かるた遊戯に関する文章にもう一度転換させ、結論は、さらに三度目の転換を行い、幸徳が自分の老いを嘆いているがそうでもない、ということになっている。つまり、獄中からの書簡、命がけで権力と闘い、その真情を吐露する文章を紹介することが主題の緊迫した文章の前文なのに、そういう本筋とは違う方向を向いて終わっている。このどうしようもなく不謹慎な展開の話が、不正、不当に冤罪で死刑に処せられた社会運動の先輩である幸徳の百箇日に、同志を送る追悼の言葉なのか。こんなにばからしいことを啄木はするのか。私はそうは思わない。

啄木が、なぜ、大逆罪のでっち上げ事件で幸徳を死刑に処した国家権力を糾弾せずに、歌かるた遊戯の話に前文を終わらせたのか。それは、この文章を書いた当時の、恐ろしく過酷な、国家による社会主義者狩りと出版物の検閲に対処するための韜晦(とうかい)であろう。啄木はもとより、文章執筆当時に、厳しい検閲事情なのでそれが公刊できるとは考えていなかったであろう。かといって、検閲の網をかいくぐって非合法出版をすれば、啄木も、大逆罪の重罪犯の支援者、いや共謀者、共犯者として、死刑はないかもしれないが長期の懲役刑は免れない犯罪の被疑者として追及されかねない。そういう状況下で啄木にできたことは、幸徳の獄中書簡を記録し、その草稿を保存し、それがいつの日か誰かの手によって公になり、歴史に刻まれるよう願うことだけだったのではないだろうか。それも、本心を隠して歌かるた話にカモフラージュした文章に仕立てて。私には、そういう立場の啄木が見える。

そうだとしたら、こういうカモフラージュに好都合な歌かるたの遊戯という季節ネタが、本当にこの夜、窓の外の暗闇から聞えてきたのだろうか。私は、この挿話は、啄木が韜晦(とうかい)のために作り出したフィクションではないかと思っている。啄木はドキュメンタリー作家ではなく、詩人であり、小説家である。フィクションはお手の物、この夜の歌かるた会は啄木の話術が産んだ幻の出来事であった可能性を否定できない。

したがって、残念なことに、この歌かるた会のお話は、明治期の歌かるた遊戯に関する目撃証言としては実証性に欠けていてほとんど無価値であり、百人一首かるたの研究で取り上げる趣旨がよく分からないのである。そもそもこれをかるた史の史料として紹介するべき価値はどこにあるのか。最後になってちゃぶ台返しのような指摘で申し訳ないが、私の心中ではこの重大な疑問がくすぶり続けている。

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