後世の花札の図像との関係で、対応するこのかるたの紋標で、個別に気になる札が何枚かある。

元禄年間花合せかるた
元禄年間花合せかるた(橋上の歌人等)

紋標・桜の生き物札が消失しているので、そこに鳥が描かれていたのか、すでに幕が描かれる御殿桜になっていたのかが不明である。

紋標・杜若の生き物札には八つ橋があるが、そこに公家の座る姿がある。あるいは歌人であろうか。ただし、橋の大きさからすると人の姿が小さく、あるいは人形を描いたものであるのかもしれない。

紋標・牡丹の生き物札には名称の記載がない。図像が濃色で描かれていて墨書では読めないが、他にも白色で紋標名を記した例があり、この欠落は理由が分からない。紋標・牡丹の生き物札は、花札になってからは蝶であるが、それが孔雀であることに驚く。

紋標・萩の生き物札に登場するのは猪ではなく兎である。古い花札に「猪鹿蝶」の役がなかった理由はここにあるのだろうか。

紋標・芒では生き物札は鳥ではなく蝶である。この札が上位にあり、短冊札があり、三日月のある札は二枚のカス札の内の一枚である。四十八枚の花札になってからでは、蝶は雁になり、月は満月に変化しており、昇格して役札となり、木版の「武蔵野」では地紙の空の部分が加色されるようになった。当初は自然な 空の色で青く 塗られていたが、幕末期に 暁の色である桃色 になり、明治前期に 真赤色 になった。一方、このかるたでは、芒の野の空に浮かぶ三日月がいかにも自然の場景として描かれており、役札への変化が生じるよりも以前のカス札の時期の図像であることが知れる。

江戸中期手描き花合せかるた
江戸中期手描き花合せかるた

紋標・柳では、生き物札と短冊札が欠けているのでよくは分らないが、雷雨の中を走る奴の図像の札はまだカス札扱いであろうと思われる。紋標・芒と同様に、役札への変身が途上であるところが興味深い。なお、この雨中を走る人物について、人形浄瑠璃や歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」に登場する斧定九郎だとする理解がもてはやされたことがある[1]。主唱者の村井省三は「おの」つながりで斧定九郎が小野道風になったという楽しい仮説まで披露していたが、私は懐疑的であった。「仮名手本忠臣蔵」は寛延元年(1748)八月、大坂竹本座にて初演である。それより四十年も前の宝永年間(1704~11)にすでにこの人物は雨中を走っているのであるから、寛延年間(1748~51)生まれの斧定九郎ではモデルになりようがないことは明確になった。

ここで、あまり歴史的な意義があるとは思えないのでちゅうちょするが書いておくことがある。紋標・松の鶴も、紋標・紅葉の鹿も、左半身を描くことでは明治年間以降の花札まで不変であるが、雷雨の中を走る奴の場合は、このかるたでは左半身を示して画面の左に向けて走っているのに対して、木版の武蔵野では、右半身を晒して画面の右に向けて走っている。雷雨の稲妻の描き方は不変で、右上から左下であることは変わりないので、このかるたでは、雷雨から逃げるような絵となり、木版の「武蔵野」では雷雨に向かっている絵となる。他に、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館蔵の江戸時代中期(1704~89)の手描き花合せかるたでも左に走っている絵である。だからこれはこのかるたの問題ではなく、木版の「武蔵野」の側の問題なのであるが、手描きの花札では左走りであった奴を右走りに変更したのはなぜなのであろうか。鶴や鹿、それに花札の時代になってからの鶯や猪などの図像でも身体の向きは一貫して同じであるだけに、奴の向きに限った変化はちょっと気になる。

このかるたでは、すべての紋標に短冊札があり、短冊の色は主として朱色であるが、空色、紺色、紫色、白色、緑色の短冊もあり、後の花札の「赤短」「青短」のような「役」があるとは見えない。花札になってからは消滅した紋標・芒の短冊札も存在する。もう一つ、短冊札が消滅した紋標・桐については、生き物札一枚と、もう一枚が欠落しているので、この紋標での短冊札の存否は判断しかねる。

一紋標に二枚、カス札がある。図像は変化を付けて表現されており、同じ図像を繰り返した例はない。中に、月、雷光などの天体現象、蝶や蜻蛉、蛍などの生物、雨中を走る奴のような人物、兜や雛人形、盃などの器物が加えられているものがある。

なお、すべての紋標のすべての札に、紋標の花の呼称がある。ないのは梅、杜若、牡丹の生き物札などごく少数である。これらの紋標でも、生き物札以外の短冊札やカス札には呼称が書かれている。文字の表記は、その用語法から、花合せかるたが制作されて使われた地方、時代、社会階層などを推測する手掛かりになる。また、同じ紋標を指すのに四枚の札の中で違う文字を使って名称を表記しているものが多い。元々絵合せかるたでは、札の上にその物の名称を漢字ないし平仮名で書き込むのが通例であり、このかるたでも、そのように考えられるが、後世の補修の際にどのように手が加えられたのかは不明である。文字遣いに関しては一つの紋標で四枚の札の間にも書き手が異なるように見えるものがある。何しろ大部のかるたであるから、複数の者が分担して書いたのか、今後の検討の対象に残したい。


[1] 村井省三「花札の移り変わりに見る遊びの文化 花札のアラカルト③道風と定九郎」『花の手帖』(「盆栽世界」別冊)一九八三年早春号、樹石社、昭和五十八年、三五頁。森田誠吾「雨の花札」『ちくま』第六十九号、筑摩書房、昭和四十九年、六頁。

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