そして、この時期に、中国の友人と話をしていて、「青蚨(チンフー)」のことを知った。青蚨(チンフー)はカゲロウ(蜉蝣)の一種であるが、母子の情愛が深く、青蚨の母虫を手元に捕えておいてその血を紙幣、貨幣に塗り、他方で子虫の血を別の紙幣や貨幣に塗ってそちらを取引の支払いに使うと、子の青蚨が母親を慕ってその手放した紙幣や貨幣は回りまわって母虫の血の付いたものがある手元に戻ってくる、つまり元手が回収できて利益が出るので財を成せるという縁起の良い伝承があった。

『和漢三才圖會』(江戸時代中期、寺島良安)
『和漢三才圖會』
(江戸時代中期、寺島良安)

このことは日本でも古くから知られていた。江戸時代の『和漢三才圖會』巻第五十二 蟲部に「青蚨」とあり、図示されている。近代でも、大修館の『廣漢和辞典』[1]の「蚨」に「①青蚨は、水虫の名。形は蝉に似、中国の南海に生じる。その母と子の血を別々に銭に塗り、一方を手もとに置き一方を使えば、すぐまた戻って来るという」「②青蚨は、銭の別名」とある。『大漢和辞典』[2]も同旨である。また、小学館の『日本国語大辞典』には、青蚨が銭を指すことを示す用例が様々に掲載されている。

「青蚨」型の建物装飾具
「青蚨」型の建物装飾具

「青緡銭(せいびんせん)」という言葉がある。青ざし、つまり紺色に染めた麻縄の銭さしにさした銭のことである。俗に「あおざし」という。また、「一緡青蚨(いちびんせいふ)」という言葉がある。「緡」は百枚の穴開き銭に通して結ぶ紐であり、「一緡青蚨」は「一緡(ひとさし」百枚の銅銭、つまり「一索」である。「一索」を図示したものが、きっちり結ばれた百枚の穴開き銭から、紐が少し緩んだのか、あるいは実際の百枚の束の姿に似せたのか、少しゆがんだ形になり、いかにもカゲロウらしく描かれるようになったのである。実際に青蚨の形を見ると、胴体の部分はまさに「一索」である。私の「揺れ虫」という理解は、当らずとも遠からずであったと思えてうれしかった。

地球大の「一索鳥」(左 チャド・バレー社牌、右 梅蘭芳牌)
地球大の「一索鳥」
(左 チャド・バレー社牌、右 梅蘭芳牌)

これは青蚨図像史からすると後日談のようなものであるが、「一索」牌の「青蚨(チンフー)」の図柄には、使用するうちに小さな傷がつくが、それがくちばしのような個所につき、図柄が虫よりは鳥に見えるようになり、結局鳥の図柄に移行していったようだ。従って当初の鳥は何鳥と特定できない鳥一般であったが、その後、中国中部では、鶴、雀、燕、海鳥、鳳凰その他多様な鳥になり、北部では孔雀に似た鳥になり、南部で鸚鵡になったので、中国の古牌を集めると鳥類図鑑のようになる。面白いのは中国中部にあった大きな鳥で、牌の下半分に地球儀があり、上半分に地球と同じくらいの規模の一匹の大鳥が飛翔している。梅蘭芳の愛用した特注牌もこの図柄だが、イギリスのチャド・バレー社が中国から輸入した麻雀牌がこの図柄で、だからイギリスの麻雀牌ではおなじみの図柄である。

「一索進化論」掲載ページ
「一索進化論」掲載ページ

私は、ある時、この発見を旧知の、名古屋市在住でウェブサイト「麻雀祭都」の主宰者、浅見了に話したところ、強い興味を示したので、当時私が所属していた大学の会議室を一日借り切って、私のコレクションを並べて、浅見了一人のための展示会を開催した。そして、浅見から聞いてこれを知った『月刊プロ麻雀』から寄稿の誘いがあり、私は、平成十年(1998)に、「麻雀のルーツを探れ!」という連載で「一索進化論」を唱えて麻雀業界にデビューすることができた。

この頃、私は、かるた文化史で学んできた欧米の研究手法を麻雀の歴史にも応用していた。欧米のかるた史研究では、文献情報への過剰な依拠は危険であり、常に、物品情報と伝承資料情報で是正するべきであることが強調され、半ばプレイヤーあるいはコレクターとなって現場に足を運んで調査、研究するのが常態であった。だから浅見にも、麻雀牌を見せたのではなく、麻雀牌で歴史を見せたつもりであった。そして、このことを理解してくれた浅見の勧めもあって、大牟田市立三池カルタ記念館で中国のカルタである紙牌と紙牌から派生した麻雀牌の展示会を開催することになり、その機会に竹書房の野口恭一郎とも知り合い、麻雀牌で歴史を語る博物館を作ろうということになったのである。

私は、終始一貫、この立場だけは守ってきた。それまでの麻雀史が文献情報の受け売りに終始していたことは明らかであり、その成果物の精粗には大きな差があるが、いずれにも共通して文献史学の限界もまた明らかであった。そこで、私の成しえたことは、これで生計を立てている大学や研究機関の専門家からほど遠い素人史学であり、雑駁なものであるが、それでも麻雀牌という物品史料の宝庫を訪ね歩いて得た知見は、今日でもなお、麻雀史学に何がしかの意味を持っていると思う。そう考えて、この文章を編んだ。いざや、麻雀牌にその歴史を語ってもらおうではないか。


[1] 諸橋轍次他編『広漢和辞典』下巻、大修館、昭和五十七年、五一六頁。

[2] 諸橋轍次『大漢和辞典』第十巻、大修館、昭和三十四年、一二頁。

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