麻雀の発祥についてはよく分からないだけに、諸説が登場した。1860年代に太平天国の陣中で骨牌という形が考案されたという説が有力であるが、北京の宮廷だという説もあり、長江の物資輸送に携わる水夫たちが、馬吊の遊技に使う紙牌だと川風で飛ばされてしまうので工夫して紙牌から骨牌に改めたという説もある。

榛原茂樹牌
榛原茂樹牌

その中で異彩を放っているのが、麻雀史の碩学、榛原茂樹(はいばらしげき)の説である。榛原は1928年の北京で、古物商で一組の不思議な古牌を発見した。榛原は主著である『麻雀精通』などで、この骨牌は、現存する最古の麻雀骨牌で、麻雀の発生が太平天国以前にさかのぼることをもの語るという仮説を述べている。榛原は次のように書いている。

「私は一九二八年北京に於いて約七十年前の麻雀牌を手に入れたが、それは福州麻雀で東、南、西、北のかはりに江、村、斜、影。中、發のかはりに晩、凉と刻した牌があり、白板がなくて棋、僧、待、月といふ花牌が一個づつあつた。……ところが花牌が流行したといふ長髪賊亂の時代は、一八四九―六四年であり、私の手に入れた牌は一八六三年福州製であるから、年代も良く合う。」[1]

「『北京の浅草』である天橋から、同じく『北京の帝劇』である開明劇場までの大街の東側は、主として骨董屋、といふほどの値打ちもない一種のガラクタ屋の巣窟であるが、その中の一軒で非常に變つた牌を見附けた。……その時は別に手に入れる氣にもならなかつた。すると數日後に電通のY君が來て、餞別をやるから何か欲しいものをいへといふので、それではと例の變り牌を所望した。Y君早速仕入れて來て呉れたが、顔を見るなり、『アノ牌は餘程古いものだヨ』といふ。どういふ譯かときくと、箱の蓋の裏面に、『甲子年置於福州』と書いた原所有者の署名があるといふ。甲子は今から五年前で、その前といへばそれから六十一年前、即ち今年から數へて六十六年前の牌なのである。それから福州で買つたものだといふことも分る。」[2]

この記述が確かなものだとすると、榛原が発見した古牌は、現存するものとしては世界最古の麻雀牌となり、制作の年も場所も明確な、超一級の物品史料ということになる。そこで、昭和後期(1945~89)の麻雀史研究者はこぞってこの古牌の実見を熱望した。ところが、肝心のこの古牌は、第二次大戦後に行方不明になってしまった。榛原自身も麻雀史研究の世界からは遠ざかっており、没後は研究者と遺族との交流も途絶えて榛原の肖像写真でさえ全く残されていないという状態であった。榛原牌を一目でも見たいのが研究者の共通の夢であり、多くの者が榛原家の消息を求めたが叶わず、稀に郵便で遺族に辿り着いた者もいたが榛原牌の行方には情報ひとつ得られず、いつの間にか、その遺族の住所も不明になってしまっていた。

榛原は、麻雀史だけでなく、中国の文化を愛し、本名の波多野乾一で、中国京劇史の研究書を表し、『京劇五百番』『京劇大観』などは中国人の間でも京劇史研究の最高の書物と絶賛され[3]、また、黎明期の中国共産党の歴史にも詳しく、新聞記者らしく執筆したドキュメンタリーの『中国共産党史』は、共産党の指導者たちが教えを乞うほどに、非合法の革命運動体であったのでよく分からなかった創成期の党の実態を、史料に基づいて見事に描き出していた。第二次世界大戦後に日本を占領したアメリカ軍は、早い時期に波多野宅を襲って史資料や書類をすべて没収してアメリカに持ち帰ってしまったと言われていた。日本麻雀連盟の手塚晴雄は、「昭和三十八年十二月三十日榛原氏が亡くなられるとすぐ、アメリカのロックフェラー財団の研究所の人がきて、その中国に関する一切の関係資料を譲ってくれといって、もっていった。そのさい榛原氏秘蔵の、古い、中国産の麻雀牌の多くもいっしょにもっていかれた。」[4]と書いた。そこで、麻雀史関連の史料も、肝心の榛原牌もアメリカに渡ったのではないかという諦観が生まれ、それならばということで、麻雀博物館の設立準備の時期には、調査団をアメリカに派遣しようという話が本気で語られるほどであった。

波多野眞矢
波多野眞矢

そういう、麻雀史研究者のあいだでは探索がほぼ諦められていて、手の届かない神話となりつつあった時期に、遅れて研究を始めた私であったが、たまたま別件の関係で、榛原の孫である波多野眞矢が京劇・中国文学の研究者であり、舞台に立つ場合もあることを知った。そこで平成十七年(2005)の年末に思い切って連絡を取り、事情を話して探索への協力を求めた。そうしたところ、嬉しいことに快く承諾してもらえて、早くも翌平成十八年(2006)の二月に、家屋内を探して、榛原牌と思われる麻雀牌を若干の関連史料と共に発見したとの連絡を受けた。そのあまりのあっけなさに驚いたが、研究者としては信じられない僥倖であり、感激に胸が震えた。

私は、早速、麻雀博物館の鈴木知志副館長と二人で波多野宅に参上して実見する機会を持った。初めてこれを見た時の感激は今なお強く記憶に残されている。麻雀史の研究者が誰でも夢に見た瞬間であり、呆然自失という言葉その通りであった。この牌の分析と評価はこの文章の後半部で触れるが、付属した関連史料の中で最もありがたかったのは、榛原の肖像写真が何枚かあったことである。また、面白かったのは榛原が友人と行った対戦のスコアが残されていたことである。榛原は賭博麻雀を嫌い、賭け事でない純粋な頭脳スポーツとしての麻雀を主張していた、日本で最初の健康麻雀の提唱者であり、そこでこのスコアは、日本で最古の健康麻雀の実戦譜ということになる。そして、榛原牌と関連史料は、その後、麻雀博物館に寄贈された。


[1] 大谷通順『麻雀の誕生』、大修館書店、平成二十八年、一七八頁。

[2]戴愚盦『盛宣懐之麻雀牌』、一九三四年。但し、大谷通順、前掲『麻雀の誕生』、一八七頁に依る。

[3] 波多野眞矢「民国初期の北京における日本人京劇通―波多野乾一を中心として」『人文研紀要』第九十号、中央大学人文科学研究所、平成二十二年、二五頁。

[4] 手塚晴雄『南は北か―日本麻雀連盟雑史―』、限定版、手塚晴雄発行、平成元年、七二頁。

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