宇田川榕菴模写のカルタ
宇田川榕菴模写のカルタ
(文政四年、津山洋学資料館蔵)

ポルトガルのカルタに次いで、オランダの対日貿易が始まると、そのカルタも日本に伝来している。オランダのカルタ文化はフランスのそれから濃厚に影響を受けており、フランス式のカルタ、つまりクラブ、スペード、ハート、ダイヤの四紋標、五十二枚で構成されるもの、あるいは、構成は同じだし紋標も同じだが、図像にオランダに独特の地方色を帯びたカルタが使われていた。これは、こん棒、剣、聖杯、金貨の四紋標、四十八枚構成のポルトガルのカルタとはまるで違うものである。

オランダのカルタの伝来を伝える文献史料は少なくない。たとえば、『雍州府志』は伝来の場所が長崎だとしているが、この港がポルトガル船に開かれたのは元亀二年(1571)であり、天正八年(1580)に長崎と茂木がイエズス会に寄進されて天正十六年(1588)に豊臣秀吉に没収されるまではポルトガルの支配下にあって南蛮文化の流入には好都合であったし、その後南蛮貿易の港が平戸と長崎に制限されて寛永十二年(1635)に長崎一港に制限され、ついに寛永十八年(1641)に平戸にあったオランダ商館が長崎出島に移転されて鎖国が完成したという経緯からすると、長崎はオランダのカルタにおいても伝来した有力な候補地ではあるが、あるいは平戸やどこかの港であったかもしれないのであって明確な記録はない。

なお、鎖国直前の時期に肥前平戸のオランダ商館長を務めていたフランソワ・カロンは、『平戸オランダ商館の日記』[1]に、1640年に当時の閣老の牧野内匠頭信成からポルトガルのカルタの贈与を依頼されたところ、それが入手できなかったので、その代わりのオランダのカルタ二組を贈ったと記している。カロンは、この全く違う別種のカルタで牧野の役に立ったかが心配であったのだろうか、これが気に入ったかどうか知りたいという手紙を牧野に送っている。これがオランダのカルタの伝来に関する、今日残る最古の記録である。これ以外の記録は、いずれも不確かな伝承を語るものであり、ポルトガルのカルタの伝来をオランダのカルタと誤解しているものも多く、確かに「南蛮カルタ」ではない別種のカルタの伝来であったと確認した記述と判断できるものはない。

こうして、伝説は多いものの実際にはオランダのカルタの痕跡が存在しないでいたところに現れたのが、宇田川榕庵が模写した、オランダ商館長ヤン・コック・ブロンホフ[2]が持ち来ったカルタ一組である。これの存在は、昭和五十三年(1978)に、雑誌『學燈』に掲載された菅野陽の論稿[3]と、蘭学資料研究会が京都市の任天堂を通じて制作した復刻トランプによって広く知られるようになり、私もこの年に初めて知った[4]。ブロンホフは文化十四年(1817)に二度目の来日を果たした際に妻子を伴っており、その子どものためか、いくつかの玩具を持ち込んだ。妻子については幕府の禁令で日本での滞在が許されず、国外追放、帰国となったが、玩具はブロンホフの手元に残ったのであろう。宇田川はブロンホフの持つ「十二珍玩」を知り、そのうちの何点かを模写している。カルタはその中の一点である。

宇田川がカルタを模写したのは文政四年(1821)四月十日、自室(☒[5]樹庵)でのことである。宇田川がここで用いたのは、文化十五年(1818)に江戸でブロンホフと面談した際に贈られた、オランダのJ.HESSELSとの透かしの入ったこの時期の画用紙十帖の一部であり、カードと同じ用紙で作られた紙箱には、四行の分かち書きで「榕庵 十二珍玩之一 和蘭闘牌 一具五拾二葉 文政四年四月十日 (☒樹庵)」とあった。この時模写された十二珍玩の内「西洋スゴロク」は現存するが、そのほかは所在が不明である。宇田川の自叙年譜の天保五年(1834)二月十日の欄に「大火 公邸正在風下 廨舎蕩然 一時余負薬櫃 従公駕 至高田邸 妻奴僅以身免 生平所愛器玩 所筆剳記之類 悉成灰燼」[6](大火、公邸は正に風下に在り、役所はすべて焼失した。余は一時薬櫃を背負い、殿の御駕篭に従い、高田の御屋敷に至った。妻や使用人たちは僅かに身一つで逃れた。日頃愛玩してきた器具、書き留めた随録の類は、ことごとく灰燼に帰した。)とあるので、この火災で焼失したのであろうか。

榕菴カルタとティンマーマンカルタ
榕菴カルタ(上)とティンマーマンカルタ(下)

宇田川が模写したのは、木版印刷の、クラブ、スペード、ハート、ダイヤの四紋標で構成されるフランス式のカルタである。これはフランスの文化的な影響力もあって広くヨーロッパ各地で用いられていたので、オランダで制作、販売、使用されていても不思議ではない。そして、イギリスのカード研究者であるシルビア・マンの協力を得て実際に調査して、そのコレクションにある、ドイツ北西部、リューベック市にあったティンマーマン(Timmermann)が1798年に制作したカルタと酷似していることが確認できた。その際には、同時代のドイツ、オランダの他のカルタ屋のカルタも調査したが、絵札の人物図像に同様の着衣の模様のものがなかった。衣裳デザインの特徴からこの時期の前後にティンマーマン社で制作されたものであることが確実であった。なお、ここで比較検証に用いたシルビア・マン・コレクション旧蔵のカルタは、その没後に三池カルタ記念館で購入して、現在は同館(現名:大牟田市立三池カルタ・歴史資料館)の所蔵になっている。

また、かつてこのカルタを宇田川作の紙箱ごと包装してあった同じ画用紙の紙包みがあり、今は紛失していて第二次大戦中に撮影した不鮮明な写真が残るだけであるが、これを実見した発見者は、そこには「猿とも人間とも分からぬ二体の裸像が、月桂樹の花輪を左右から持っている絵が朱色で描かれている。しかも、その下側には同じ朱筆で、ees Cartes n Vendect cher SS Le Teboro & Fils a Amsterdam と書かれていて」と記録している。このオランダ語の文は後に津山洋学資料館によって、Ces Cartes se Vendect cher ss Le Teboro & Fils a Amsterdamと補正され、「これらのカードは、アムステルダムにおける、次に示す ル・テボール父子商会のもとで売られている。」と翻訳されている[7]。要するに、このカルタは、ドイツ、リューベック市内のカルタ屋で制作され、オランダ、アムステルダム市内の商人が仕入れてそこの包装紙に包んで販売し、オランダ船でアジアに運ばれ、長崎出島のオランダ商館にもたらされたものだったのである。

宇田川はブロンホフと親交があり、カルタを模写する際にはその遊技法についても何かを教わっていたであろうと推測されるが、その記録は残されていない。これも天保五年(1834)の藩邸の火災によって消滅したのかと思うと残念であるが、このカルタは火災の被害を免れて宇田川家の子孫に伝わり、昭和前期 (1926~45)に、医学者で日本の医学史を研究し、蘭方医の宇田川家の史料を蒐集して散逸を防いでいた藤浪剛一の手に渡り、昭和十九年(1944)に、当時上智大学の学生で蘭学史研究に熱心だった水田昌二郎が藤浪邸で見る機会を得て一気に論文を書いたという経緯を持つ。天保年間の火災は何らかの事情でこのカルタが藩邸外に持ち出されていた時期のことで、火災を免れたカルタはその後宇田川家に戻されたので同家の子孫に伝えられることができたという僥倖を喜ぶべきであろう。


[1] フランソワ・カロン、永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第四輯、岩波書店、昭和四十五年、四〇二頁。

[2] 近時はブロムホフと表記する例もあるが、ここでは、山口格太郎による最初の紹介文に倣ってブロンホフという表記を採用する。

[3] 菅野陽「宇田川榕庵模写のおらんだかるた」『學燈』、丸善書店、昭和五十三年十二月号、二八頁。

[4] 江橋崇「榕庵かるたと水田昌二郎」『津山洋学資料第6集 津山洋学』、津山洋学資料館、昭和五十五年、六頁。

[5] ☒は草冠の下に廾と書き、菩薩の意。榕庵の榕は菩提樹の意なので通じる。

[6] 前引注4『津山洋学資料第6集 津山洋学』、津山洋学資料館、昭和五十五年、三〇頁。

[7] 前引注4『津山洋学資料第6集 津山洋学』、津山洋学資料館、昭和五十五年、三一頁。

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