ちょうどこの時期、明治三十四年(1901)から三十五年(1902)にかけて伊藤博文が欧米を視察する旅行に出かけていたことはすでに述べた。その際に伊藤は土産品としてこうした大型の花札を何組か購入したようである。この話が販売したカルタ屋の側では、伊藤博文が特別注文でごく少数を製作させて買い上げた一社限りの貴重な限定版だという業界伝説に作りかえられて、「総理大臣の花かるた」として平成年間に復刻されている。そこでは「時の総理大臣 伊藤博文公が日本画で美しく描かれた初期の花カルタを再現する様に当社(大石天狗堂4代目当主、大石蔵次郎)に注文されたと言い伝えられています。現在この花カルタは、伊藤公の子孫に1組と、当社に1組保存されています」[1]という説明になっている。大石天狗堂の社内に言い伝えられているというものを外部からケチをつけて否定してもしょうがないが、商品広告として消費者に売り込んでいるので不当表示になりかねないので一言しておこう。伊藤が特別注文するまでもなくこの花札は彼の渡米の数年前から対米輸出用に商品として多く製作されていたものであり、「大石天狗堂」だけに特別注文された限定版ではなく他のカルタ屋でも一般向けに製作していた。

輸出花札(玉田兄弟商會)
木版カッパ摺りの輸出花札(玉田兄弟商會)
「総理大臣の花かるた」
「総理大臣の花かるた」(大石天狗堂)

この花札の画像は、江戸時代の発祥期の花札のデザインではなくこのかるた札が実際に制作された明治二十年代(1887~96)に存在していた、末期の「武蔵野」のデザインである。伊藤が初期の花カルタのデザインを残そうとしたというストーリーの真実性はこの図像の新しさからも明確に否定されるが、同時に、もし明治三十年代(1897~1906)の伊藤の外遊時の特注品であれば明治三十年代(1897~1906)の「八八花」のデザインになるべきであり、十年以上以前という中途半端に古い図像のものを作らせたという奇妙な話になる。さらに、大型なのは理由なく大型なのではなくアメリカ市場の求めるところだったからである。業界伝説には歴史の誤解が多いが、これもそうした例であろうか。社内の伝説と言え、消費者保護の観点からは訂正するほうが望ましいであろう。

大正時代(1912~26)になると、花札の輸出入には世界市場での国際競争という新しい要素が出現する。もともとベルギーでは古くは1890年頃トランプのメーカーが日本市場を狙って花札を製作していた。ベルギーのトランプ生産の中心地、トゥルンハウト(Turnhout)市のメーカー、メスメーカー(Mesmaekers)社で、日本への輸入、通関手続きは大阪の「河合福勝堂」が受け持ち、販売は神戸の「シモン・エバース商会」[2]が受け持った。ベルギーのメーカーは、ヨーロッパでは安価なトランプの製作で有名であり、その製品は世界中に輸出されていた。アジアでは、とくに、今日のミャンマー、バングラデシュ、パキスタンなどを含むインド地域へのトランプと、東南アジア一帯での中国系カルタ、それにオランダ領であったインドネシアへのローカルな紙牌の輸出が盛んであった。それにさらに日本の市場に目をつけて、トランプの製作機械を活用した花札、つまり、厚いボール紙に表面の図像を印刷して、裏面も黒一色にして、縁はもちろんトランプと同様に切りっぱなしのものを作り上げたのである。これが日本国内でも販売されていたが、成功してある程度売れたという記録はない。ところが、第一次世界大戦(1914~18)でベルギーは戦場となり、アジアへの輸出が不可能になった。当時ヨーロッパからの輸入が途絶えて支障が出たインドに日本製のトランプが大量に輸出された。ヨーロッパでは、特にベルギーで安価なカードが生産されていたので、日本はその市場に殴り込みをかけたことになる。ベルギー製のトランプのブランドである「グレイト・ムガール印」に似せた「グレイト・タジマハ-ル印」のトランプが輸出されたりした。また東南アジア市場に向けた中国紙牌類の輸出もあった。

ベルギー製花札(メスメーカー社)
ベルギー製花札(メスメーカー社)
左:グレイト・ムガール印、右:グレイト・タ ジマハール印
左:グレイト・ムガール印、
右:グレイト・タ ジマハール印

[1] この花札の復刻品に添付されているパンフレット「花かるたの歴史と遊び方」大石天狗堂本店、平成三年、六頁。

[2] シモン・エバース商会は神戸の外国人居留地におけるドイツ系商人の代表格のシモン・A・エバースが経営する商社であった。同社については、堀博、小出石史郎訳『神戸外国人居留地:ジャパン・クロニクル紙ジュビリーナンバー』神戸新聞総合出版センター、平成五年。

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