花札を実際に遊技具として多く使ったハワイでは、日本人移民の増加と共に花札が持ち込まれた。たまたま熊本県出身の移民が多かったので、ハワイの花札の遊技法は熊本風になった。熊本の地方ルールでは、短冊札が十点で生き物札が五点なので、ハワイの花札のルールでもこのようになっている。この地で用いられた花札は「八八花札」であった。日露戦争後の「大連花」のように、図柄に固有の特徴ができたのではないが、同じように日本国内で制作されたものが輸入された。大正期(1912~26)には、ホノルル市に「文明堂」というカルタ屋ができ、日本国内で下請け制作させたものを販売していた。文明堂の花札、「布哇花」も残っているものはほとんどない。私のコレクションには一組あるが、それをもって日本のどこのカルタ屋が制作を請け負ったのかを判断するのは難しい。ただ、この一例では、札の図柄に大阪の「八八花札」の特徴がうかがわれる。一方、「松井天狗堂」には、「文明堂」のラベルの残品が残されていた。だから、「文明堂」の下請け業者は大阪と決めつけることはできないが、少なくとも、大阪のカルタ屋もこれに関わっていたのであろうということは言える。

「文明堂」製花札のラベル紙
「文明堂」製花札のラベル紙
「布哇花」
「布哇花」

なおその後、布哇(ハワイ)では、トランプの大きさで、トランプと同じ材質の用紙を使った機械製の花札が用いられるようになった。現地ではこれをサクラ・カードと呼び、花札で遊ぶことを「サクラをする」と呼ぶこともあった[1]が、札の表面に点数表示があるときは短冊札が十点で生き物札が五点になっているので、これを「ハワイ花札」と呼ぶことが許されようか。日本製の輸出品がある。また、二十一世紀になってハワイでHANAPUAというハワイ化したデザインの花札が製作された。デザインは、ハワイの草木、花、鳥に転換されていて、花札の面影は薄いが、興味あるのは、「四光」の札が二十点(雨の札は零点)、短冊札が十点、生き物札が五点であること、「桐」の紋標に代わるパイナップルの紋標に短冊札があることで、これはいずれも「八八花」以前の熊本県内の花札のルールがなお図像の中に生き残っていることを示している。「ハワイ花」は遊技法に独自性を保っていると言える。

「ハワイ花札」(任天堂製)
「ハワイ花札」(任天堂製)
「HANAPUA」
「HANAPUA」
「花トラ」
「花トラ」

なお、これと類似するのでここで区別する意味で記述しておきたいのが、日本国内で用いられていた花札とトランプの兼用札、通称「花トラ」である。「花トラ」も、「ハワイ花」と同様のトランプ札のような作りであるが、大きさはトランプ札の大きさの物もあれば、花札の大きさにまで小さくされたものもある。また、「ハワイ花」は表面に花札の図像だけが描かれており、四隅にインデックスの窓絵を加える時もそこには当該の札の図像が描かれているのに対して、「花トラ」は右上隅と左下隅の窓絵にトランプの図像が描かれているのであって、この点が決定的に違う。さらに、「ハワイ花」では、表面の上部にMATSU(PINE),UME(PLUM)などの文字が入る。ただし、SUSUKI(PAMPUS)とあるものもあり、BOHZU(MOON)とあるものもある。同じように、YANAGI(WILLOW)とAME(RAIN)との違いもある。表面の下部にはJANUARY以下の月名が書かれているが、さらに(ICHI-GATSU)と加えられているものもある。「花トラ」にはこういう表記はない。「ハワイ花」は一組が四十八枚であるが、「花トラ」はすでにその一種の煙草カードで紹介したように一組が五十二枚であり、花札の図柄の四十八枚のほかにさらに四枚、「八八花」のゲームで使う「不見出」や「吟見勲章」などの図像の札が付く。これにさらに五十三枚目の札としてジョーカーが付くこともある。

西海岸の出稼ぎ日本人労働者
西海岸の出稼ぎ日本人労働者

花札は明治二十年代(1887~96)にアメリカ本土にも伝播した。特に西海岸の出稼ぎ日本人労働者の間で流行した。日本人労働者は、日系人の一世になるが、アメリカ法で帰化が禁止されていて市民権が得られなかったので、いわば日陰の存在として被差別と虐待と搾取の中で過酷な労働に従事し、その苦しみの生活の中でのわずかな慰安を賭博行為に求めた。当初は中国人が経営する賭場で中国賭博のカモにされていたが、後に日系人の賭場が各地に設営されて、花札賭博が西海岸一帯で盛んに行われた。明治中期(1887~96)から大正期(1912~26)にかけて西海岸一帯で日本人の博徒がいかに横行したのかは、伊藤一男の『北米百年桜』[2]の「第十八集賭博」に詳細に報告されている。

輸出花札(玉田兄弟商會)
木版カッパ摺りの輸出花札(玉田兄弟商會)

だが、花札は、博徒や賭博場の常連の日系人の間だけではなく、正業につくようになり、家庭も持つようになった日系人にも流行し、その家庭娯楽となるとともに、他のアメリカ人家庭でもこれを楽しむことがあった。こうしたアメリカ輸出用の花札は日本国内向けの花札と同じ貼り抜きの手法のものであり、高級品はすでに紹介したように手描きであったが、普通は木版カッパ摺りの物であった。図像は明治二十年代(1887~96)なのでまだ「八八花札」が圧倒的に優位に立つてはいなくて、それ以前の時期の図像のものが出回った。「藤に杜鵑」の札には月がなく、「柳」の札では「奴」が走っている。この花札はトランプ大の大きさであり、「玉田兄弟商会(元・玉田福勝堂、後に日本骨牌製造合資会社)」や「大石天狗堂」などのカルタ屋で製作されて輸出されている。これと、明治二十年代の初めに上方屋が扱った対米輸出用の「西洋がるたと同様の寸法」の花札との異同ははっきりしないが、上方屋の商品を後発のメーカーが模倣した大同小異のカルタであったろうと推測される。


[1] ジェシカ・サイキ『ハワイ物語 日系人作家ジェシカ・サイキ短編集Ⅱ』池田年穂、倉橋洋子訳、西北出版、平成十年、一一五頁。

[2] 伊藤一男『北米百年桜』(非売品)、北米百年桜実行委員会、昭和四十四年、八五九頁。

おすすめの記事