ここで私が注目したのは狩野探幽である。狩野探幽は、幕府の奥御用絵師という立場を得て、江戸で江戸狩野派を開いた。当時、歌人絵付きの「歌仙手鑑」が大流行して特に上流階級の女性に愛好されるようになると、江戸城の城中でも将軍家の女性たちが享受することとなり、探幽には、この「歌仙手鑑」の制作という仕事を土佐派に独占させるのではなく江戸狩野派で提供する必要が生じた。しかし、歌人絵の基本は土佐派の大和絵の技法に則った歌仙絵であり、それによって平安時代の宮廷歌人たちのイメージの基本が確立しているのでそれに近い歌人絵を描かないと世間が納得しないという制約があり、江戸狩野派としても歌仙絵としての正統性を確保するためには土佐派の歌仙絵に倣う必要性がある。だが、それと同時に、幕府御用絵師の面目にかけて土佐派にはない優れた要素を持つことも求められていた。

狩野探幽他『百人一首手鑑』  (右上より、天智天皇、持統天皇、  式子内親王、寛文二年、『歌留多』)
狩野探幽他『百人一首手鑑』
(右上より、天智天皇、持統天皇、
式子内親王、寛文二年、『歌留多』)

探幽の歌仙絵には、『百人一首手鑑』(安信、常信、益信らも参加)の外にも、『百人一首画帖』や『三十六歌仙』がある。この外に、幽斎が単独で描いたと考えられる百人一首絵がある。万治二年(1659)の『柳營日次記』に、幕府が探幽に「御屏風百人一首絵」の制作を命じたところ早速に完成させたので褒美として黄金二十枚を授けたという記事がある。この百人一首絵屏風は残存せず、その内容を示す記録もないが、京都の後水尾朝廷に見られない新しい歌人絵が江戸城内に出現したという画期的な作品であり、黄金二十枚という破格の褒美はこれをもって大和絵の世界での指導権を京都の宮廷から江戸の将軍家に移すのに成功したことへの報奨金であったことであろう。この構図が基になって寛文二年(1662)頃に『百人一首手鑑』が成立したものと考えられる[1]し、この江戸狩野派の歌人絵の屏風や画帖が将軍家より各大名家へ贈られたり、大名家の姫君の婚礼に際して画帖や屏風絵の形で調度品として発注されたりすることで、大和絵の世界での江戸狩野派の正統性が確立していったものと思われる。

ここで探幽が着目したのは、まずは歌意図である。探幽は歌人像の上部にその和歌の情景を風景絵として描いた。そこでは、「わたの原漕ぎいでて見ればひさかたの」と詠んだ法性寺入道前関白太政大臣の歌意絵に、遠景の漁舟を操る船乗りが小さく描かれたのを唯一の例外として、他には人間は一切描かれていない。絵の出来栄えもとくに感銘を受けるような傑作ではない。しかし、ここに和歌の情景の絵が置かれたことは、実は爆発的な衝撃である。なぜならば、こうして和歌の内容が図像化されてみると、画面の全体がその和歌を説明していることになり、下部にある歌人像は、それまでの適当な当てはめによる装飾のイラスト画ではなく、その和歌を詠んだ作者その人の肖像画でなければならなくなる。背後に花開いた梅の木を背負い、右手に手折られた一枝を持つ人は、他の誰でもなく、紀貫之その人でなければならない。この、本人性の強化こそが探幽の狙いである。

歌人像は、和歌の内容に見合ってその人固有の人物絵として描き改められなければならない。それまでの、適当な当てはめ、入替で生じている、位、官の誤り、衣服の誤り、そして座席(上畳ないし茵(しとね))の誤りは正されなければならない。そうしないと、一枚の絵の中で、上部の風景画と下部の歌人像がそっぽを向いてしまう。和歌の風景画を加えることにはこうした爆発的な効果、衝撃があったのだと思う。

ここで、探幽が狙いを定めたのが、土佐派のいい加減な天皇、皇族の図像であった。寛永年間(1624~44)に土佐派の絵師が光悦、素庵に提供して版本になった百人一首歌人図像では、三十六歌仙歌人絵などに採録されていない天智天皇、持統天皇以下の天皇図像を新たに考案する必要があったが、土佐派の絵師がとった方法は安直で、すでにここで細かく検討して指摘してきたように、三十六歌仙のうち百人一首に選ばれていない大中臣頼基の図像に繧繝縁(うんげんべり)の上畳を配することで天智天皇、陽成院、崇徳院(この上皇に限っては姿は大中臣頼基だが上畳はない)に変身させ、源公忠の図像に同様の上畳を配することで光孝天皇、三條院、後鳥羽院、順徳院に仕立てた。モデル二人で七人の天皇図像を誕生させたのであるからすさまじい。また、持統天皇図像は中務に几帳(きちょう)と繧繝縁(うんげんべり)の上畳を付け加える細工で済ませたし、元良親王は源信明のままで最初から臣下扱い、式子内親王は斎宮女御のままである。これは極めて大胆な改変、考えようによっては天皇制に対する不忠、不敬の極みであり、土佐派の歌人絵の大きな弱点として残った。

探幽はそこに攻め込んだのであり、天智天皇、持統天皇などの図像では在世時にふさわしい歴史的な考証を経た衣裳の構図を新たに考案し、天智天皇は衣服を公家の意匠から古代の帝王のそれに改めたうえで腰掛に座らせ、持統天皇には上畳を二段にした上にさらに茵(しとね)を敷いて最高度の敬意を表したうえに硯箱を用意して扇で顔面を半ば覆った。これは持統天皇が和歌を詠んでいる情景を想像して描いたものである。持統天皇は居眠りの図だとした吉海説とは、絵画の理解力で雲泥の差がある。探幽はさらに、他の天皇や上皇たちも威厳のある姿に描き替え、崇徳院にも繧繝縁(うんげんべり)の上畳を配して上皇位への復位を認めた。探幽に言わせれば、土佐派の歌人絵には皇室を軽んじる重大な不備があり、それを是正した、皇室への崇敬をないがしろにしていない自派の絵の方が品格は上だということになる。

探幽作の屏風や画帖を見れば、開いた最初の頁にこの強烈な天智天皇の画像があり、続いて持統天皇への思慕に満ちた画像が続くのであるから、屏風や画帖を見る人には、この前代未聞の画像を通じて探幽が発したかったメッセージは印象強く伝わったであろう。そして、狩野安信、常信、益信ら江戸狩野派の絵師を動員して作成した『百人一首手鑑』においても、天皇、皇族の絵姿に関しては、そのほとんど全てを探幽自身が描いており、探幽の主要なターゲットがどこにあるのかを如実に示している。探幽は、さらに臣籍の歌人については、垂纓冠(すいえいかん)の者を大幅に減らし、武官姿の者の数名を文官姿に変じ、逆に数名を武官姿に改めた。僧侶でも西行法師など数名を、不似合いな僧綱襟(そうこうえり)姿から解放し、ごく自然な市井の僧侶姿に戻した[2]。この基本姿勢は探幽の弟子、後継者に引き継がれ、狩野派の百人一首画帖では、なお若干の歌人像でさらなる変更が加えられてはいるが、構図の基本は踏襲されている。


[1] 安村敏信「狩野探幽筆 百人一首手鑑」『国華』千二百八十四号、国華社、平成十四年、五一頁。

[2] 狩野探幽『探幽筆百人一首歌心帖』、嵩山堂はし本、昭和五十三年。

おすすめの記事