大日本帝国は活発に領域の拡大を追求して、大国になっていった。その際に対外膨張の最前線は、日本軍の軍事行動と土木工事への兵站を担った軍属、軍夫、土建業者、鉱物資源採掘関連の鉱業者で占められていた。そのためには、軍の物資の輸送や鉱工業、土木工事の展開のために「軍夫」として大量の労働者が送りこまれ、そして、そういう現場では、軍夫の派遣、配置を一手に引き受けていた博徒集団によって安易な慰安としての博奕が盛んに奨励され、いつも花札が大量に舞っていた。大日本帝国の膨張の最前線には常に花札があった。かつてアメリカ帝国主義は、アメリカ軍が進出するとコカコーラが持ち込まれ、販売もされるようになるので、コカコーラ帝国主義と呼ばれた。これをなぞって、日本はアジアへの進出が早かった仁丹に注目して仁丹帝国主義といわれた。この例えを借りて表現すれば、大日本帝国は花札帝国主義であったとも言える。私が大日本帝国の花札という概念を提示している理由の一半はここにある。

台湾は、明治二十七、八年(1894~95)の日清戦争に勝利した日本が最初に獲得した植民地であり、当然そこにも花札は持ち込まれた。すでに紹介したように、明治三十五年(1902)に施行された骨牌税法第二十六条は「本法ヲ臺灣ニ施行スル迄又ハ臺灣ニ於テ本法ト同一若ハ之ヨリ重キ課税ヲ爲ス迄ハ臺灣ヨリ本法施行地ニ骨牌ヲ移入スリコトヲ得ス」としている。これを受けて臺灣総督府は骨牌税法施行細則(明治三十五年府令第四十七号)を発して同法の施行を進めた。これが先例となって、以後、朝鮮、樺太等の新植民地においても総督府令をもって骨牌税法を施行する法慣習となった。

台湾は、東南アジアに広がる華人文化圏の北端であって、その文化には南部中国、ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシアなどと共通する面が多い。カルタ賭博も同様で、中国の馬弔(マーチャオ)牌系の「客家(ハッカ)牌」や将棋紙牌系の「四色牌」等、小型でこの地域に独特のカルタが以前から活発に使われていた。したがって、台湾を占領した大日本帝国としては、花札を展開するだけでなく、既に展開されている中国系の賭博カルタをどう扱うのかということが問題であった。これは、日本統治以前の風俗文化であったアヘンの吸引、宝くじのような彩票の販売[1]、ビンロウの摂取などと同じく、禁圧が困難で日本本土にはない特別の取り扱いが必要であった。

台湾では、大正十五年(1926)の骨牌税法改正に合わせて、七月一日付で台湾総督府令第五十五号を発している。また、昭和十二年(1937)には、「臺灣ニ於ケル骨牌税法ノ特例ニ関スル件」(昭和十二年九月二十四日勅令第五百二十五号)によって「四色牌」については課税額を一組十銭と低額化した。そして、台湾では、花札は、現地の人々の間では思ったほどには普及しなかった。

「大一六」
「大一六」

日露戦争の戦勝で日本が獲得したもう一つの植民地が樺太南部であった。この地域における花札についてはほとんど知られていない。「八八花札」も持ち込まれたが、その他に「樺太花」と呼ばれるカルタがあったといわれる。だが、これはどうやら独自の図像の花札ではなくて「手本引き」という遊技の張り札系のカルタであるらしく、京都の「任天堂」の倉庫にわずかに残っていて昭和五〇年代(1975~84)に私が発見した「大一六」と呼ばれるカードがそれだと言われている。私にはよく分からない。法令的には、昭和六年(1931)十月二日の勅令第二百五十二号により、同年十二月一日より骨牌税法が樺太でも施行された。樺太にはカルタ製作者はいなかったが、内地から朝鮮に移出された免税品の花札が樺太に再移出されて無税で通用するのを防止しようとして施行されたものであり、花札については税関で印紙を貼付して納税させるという制度になった[2]


[1] 鶴見祐輔「台湾彩票の顛末」『後藤新平』第二巻、後藤新平伯伝記編纂会、昭和十二年、二一八頁。

[2] 『日本統治下の樺太』外務省条約局法規課『外地法制誌』第七部、昭和四十九年、二一九頁。

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