ブロンホフ、フィッセルに次いで日本のカルタをヨーロッパに持ち帰ったのは文政十一年(1828)に国外追放処分を受けて日本を出国した長崎出島の商館医師フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)である。ただし、この時の国外追放時には、日本の生物学標本は持ち帰ったが、日常生活用品は持ち帰っておらず、カルタ類もこの時は持ち帰ってはいないと思われる。シーボルトは、その後、幕末期(1854~67)に日本が開国すると、安政六年(1859)に再来日し、文久二年(1862)に多数の蒐集品とともに帰国して、その後、ヨーロッパ各地で日本展を開催した。
ライデン国立民族学博物館に収蔵されているシーボルト・コレクションには二組の賭博カルタが保存されている。残念なことに、シーボルト・コレクションには正確な目録が存在せず、更に、シーボルトはブロンホフやフィッセルが帰国時に持ち帰ったコレクションの中から何点もの物品史料を自分の行う展覧会などのために借用して持ち出し、返却せずにわがものとしてしまい、後に自分のコレクションを博物館に寄贈する際にそれも自分が蒐集した物品として登録してしまったので、シーボルト・コレクションの中にあるからと言ってシーボルトが持ち帰った物とは限らないという困った事態になっている。この二組の賭博系カルタについても、フィッセル・コレクションのものであったのではないかという疑念が消せない。カルタそのものを見て判断することになるが、印象としては、フィッセルの帰国時の文政年間(1818~30)のものであり、もっと後の幕末期(1854~67)にシーボルトが持ち帰ったものである可能性は低い。ただ、ここでは、こういう疑問は残るものの、一応は公式の記録を信頼して、現在の保管状態を前提にして、シーボルトが持ち帰ったものとして扱う。
二組のカルタの内の一組は、ブロンホフが持ち帰ったカルタによく似た西日本の「合せカルタ」タイプのものである。これは平成八年(1996)に岡山の林原美術館、東京の江戸東京博物館、大阪の国立民族学博物館で開催された「シーボルト父子のみた日本」展[1]で展示するために日本に里帰りされたことがあり、よく知られている。「鬼札」一枚も含めて四十九枚一組であるが、この日本での展示会の途中で「ウマ」のカードが一枚紛失されている。「オウル」紋標の「五」と「六」に金銀彩が厚い点はブロンホフのカルタと同じであるが、他にも金銀彩が濃いカードが何枚かある。「アオ」紋標の「ピン」「ソウタ」「ウマ」「キリ」のカードに金銀彩が濃いあたりは近代の地方札との関係がブロンホフのカルタよりも近しい。「オウル」紋標の「四」の中段には「極上」「請合」の文字と製造元の屋号があり、「コップ」紋標の「六」には屋号だけがある。「ほてい屋」とは別のカルタ屋が「ほてい屋カルタ」に似たものを制作していたのであろうと思われる。
もう一組のカルタは、やはり西日本のカルタであるが、描線が全体に細く、金銀彩が少ない。「アオ」紋の「二」の上部に人の首から上の図像があり、近代の地方札でいえば愛知県などで用いられていた「伊勢」と呼ばれるものに近い「天正カルタ」である。ただし「鬼札」は、「伊勢」の場合は幽霊の図像であるが、このシーボルトのカルタでは改印のような墨摺りの図像があるだけの白札である。なお、「オウル」の「四」と「コップ」の「六」の中段に各々「極上」「受合」の文字と「カギに銭」の紋がある。「銭屋」と呼ばれたカルタ屋であろうか。
以上の二組のカルタは、ブロンホフのカルタよりも少し後の時期に制作されたものと思われる。描線の太さや彩色の濃さ、金銀彩の多用などの荒々しい図像の特徴がブロンホフのカルタよりも色濃く表れているが、こういう点は制作したカルタ屋の違いが大きく、単純に時代の差と判断するのは早計である。全体の印象としては文政年間(1818~30)のものと推測されるが、確定的なことは言えない。なお、シーボルトには、このほかに、幕末期(1854~67)の日本再訪時に持ち帰った物品が大量にあり、ドイツ国内などに保存されているが、そこには「むべ山かるた」もあり、平成二十八年(2016)に千葉県成田市「国立歴史民俗博物館」などで巡回開催された「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」展[2]に出品するために里帰りして展示されている。
[1] 展覧会目録『シーボルト父子の見た日本』ドイツ-日本研究所、平成八年、九六頁。
[2] 展覧会目録『よみがえれ!シーボルトの日本博物館』青幻社、平成二十八年、七〇頁。