以上、太田孝太郎が残した南部カルタ版木の骨刷り十枚が与えてくれている研究課題に、私なりに応えて見た。もう何十年も前の学生だった頃の、ゼミでのレポートを準備するときのような高揚感と、裏返しの恐怖とがある。私の属した日本政治思想史のゼミの教師は変わり者で、一年間のゼミなのに、新学期の四月にゼミ生に課題を与えると、各自報告を準備するようにと言い残して秋学期開始までの半年間は全部休講で、自学自習に充てられた。ゼミ生の私たちは、各人が大学の図書館にこもって文献史料、先行研究を読み、神田の古書店街をさまよって資料を探し、学生食堂や喫茶店で激論し、レポートの原案を書いては破棄する作業を繰り返し、いつの間にか半年が過ぎていたことを記憶している。今回は太田孝太郎ゼミのゼミ生の気分であったが、さて、こんなレポートで師に評価してもらえるのであろうか。
日本のカルタ史研究はずっと長い間、好事家の趣味の範囲に留まっていた。それを打開したのは、昭和三十六年(1961)に私家版で刊行された、山口吉郎兵衛の『うんすんかるた』の画期的な功績である。この書は、始めて、かるた史を、文献史料、物品史料、伝承の三本柱で構築することを試みて、カルタ史研究を学術のレベルに引き上げた。太田の地方史研究、民俗史研究と近い発想である。そして、第二次世界大戦中の不本意な生活の中で、山口が兵庫県芦屋市の自宅で、一人自己の蒐集した物品史料の研究を深めて、著書の草稿を書き留めていたころに、遠く岩手県で太田は、やはり自己の蒐集した物品史料を前にして、その地方史研究、民俗史研究を深めていたことになる。もし二人が相まみえる機会があったならば、カルタ史研究はどれほど進んだだろうかと残念に思う。
そしてそれは、カルタの歴史をローカルなカルタ史の集合として把握する研究手法を世界規模で提唱し、国際的な研究学会を設立して自身も先頭に立って研究を進めた、私のもう一人の師、イギリスのシルビア・マンにつながる。ローカルという語は、日本語ではローカル線という言葉のように田舎の意味で使われるが、英語のlocalは、文化的な中心に対する地方、田舎を意味するprovincialと異なり、現場を意味する語であり、カルタをローカル・パターンで理解しようと提唱したシルビア・マンは、現場性を重視するカルタ史研究者として、実際には生涯相まみえることがなかった者同士だが、山口と、また太田と通じるものである。
マンは、ポルトガルのかるたのアジアへの普及を扱った著書『ポルトガルのドラゴン』中で日本の地方札を説明する頁で、黒札について次のように書いた。
黒札のカルタ札では、しかし、濃厚に彩色された箇所の下に、天正カルタに定型的な数点の絵札とドラゴン・カードの図柄の輪郭線がしっかりと描かれていることを、明らかに見て取れる。黒札の図柄で最も興味深い点は、「剣の二」の札に描かれた「鳥」である。これの姿は、ジャワのカルタ札にある近縁の図像にとてもよく似ている。 |
マンは、さらに同書でめくりカルタ類の地方札図像を掲載した頁の説明でも、こう書いている。
十九図 今日の「小松」のカード(京都市の任天堂製)。‥‥以下略‥‥。 二十図 別種のメクリカルタ。いっそう球根状になった「聖杯」と写実的な「剣」を示すもの。上段:左から右へ、「三ツ扇」(北海道及び本州で使用)の「聖杯のウマ」「剣のソウタ」「聖杯の五」。中段:「金貨の六」「剣の二」「シンゴ札」。下段:「黒札」(本州北部で使用)より「聖杯のウマ」「剣のソウタ」「剣の二」。「剣の二」の札にある「人間の顔」ないし「人間の姿」あるいは「鳥」は、典型的な、しかし不変ということではないめくりカルタの特徴である。 二十一図「赤八」(本州及び九州で使用)として知られるめくりカルタ。‥‥以下略‥‥。 |
マンによるこのような紹介によって、黒札は国際的なカルタ史の研究者サークルに共有される学術資料としてデビューすることができた。これほど的確で詳細な指摘は同書以降にも見当たらない。知的な好奇心が強く日本の地方札に関心を寄せたマンなのであるから、太田に会えたら何を話しかけ、何を問いただしただろうかと想像すると楽しい。私のこの論文で、現場性が高く、地方かるた史に興味の深かった三人の先達が抱いていた関心事の内的な関連性が明らかにできたら、少しは学恩に報いることになるので嬉しい。
私は、十枚の版木骨刷りに、太田の思いを感じ取り、深く感謝している。そして太田であれば、この物品史料を残すに際して、なにか、それに関連して書き残したデータがあるのではないかと期待する。いつの日か、岩手の現地でそれを知り、見ることができないかと夢見ている。太田を理解し、その功績に感謝するには、私もまた現場に立つ研究者でなければならないと思う。