花札の社会的な沈滞に先駆けて「めくりカルタ」などの賭博系地方札の遊技は衰退し、この種のカードは次々と製作中止に追い込まれていった。同じように、各地方に残っていた地方花札も衰退していった。これにともない、地方のかるた屋の廃業も続いた。徳島県阿波町、山形県酒田市、岡山県倉敷市、岩手県花巻市等にあったかるた屋は消滅し、京阪神のかるた屋でも、「田中玉水堂」「赤田猩々屋」「臼井日月堂」「日本骨牌製造」「ユニバーサル社」「山城屋」「小原本店」「松井天狗堂」などの老舗が次々と廃業していった。

こうした業界全体の衰退の中で、最後まで手作りカルタ、手作り花札に固執したのは京都の「松井天狗堂」の松井重夫であろう。松井は、もともとはかるた屋の主人で、京都の職人たちを使って花札などを製作していたが、高度成長期に花札製作業界が衰退して崩壊したので、昭和時代後期(1945~89)に、裏紙作りや生地作りまで自分でこなして独力で手作りカルタの製作を復活しようと努力した。

日本の手作りカルタの製作法は、一六世紀にポルトガル船から伝わった当時のヨーロッパでの標準的な製作法であったが、その後のヨーロッパでは製作技術の革新が進んで縁返しの手法はすたれ、また、一八世紀のフランスの百科事典『エンサイクロペディア』に図解で紹介された頃を最後に、一九世紀になると機械製作のカルタが用いられるようになり、手作りカルタの手法は途絶えた。そこで、二十世紀の世界では日本のカルタ職人だけがその技を伝承していた。その業界が崩壊して職人が離散したので、松井は世界でただ一人手作りカルタの技法を身に付けている貴重な人材として残ったことになる[1]

昭和五十年代(1975~84)に松井の存在は世界のカルタ史研究者の知るところとなり、私も、来日した何人もの研究者を京都に案内して、松井に花札製作の実演を依頼して見学させた。欧米の研究者たちは、自国では何百年も前に滅んだ製作の技法が眼の前で実演されるので、まるでタイムマシンのようだと狂喜したものである。私は、松井の技術を高く評価して、なるべく励まして技術の維持を願ったし、そのために仕事を依頼したこともある。平成初年には大牟田市立三池カルタ記念館による江戸時代初期(1603~52)の「三池カルタ」の復元にも協力してもらった。


[1] 村上健司「はんなりと洒脱――手摺り花札の再生」中央公論、平成十七年二月号、二四二頁。

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