次に、いよいよ仕立ての問題である。 天正カルタ復元で最大の困難が仕立ての工程にあることは予想されていた。松井が苦労するのは事前の話合いの段階から分かっていたことである。念のために説明しておくと、日本のカルタ制作の主流は、合羽(かっぱ)摺り、つまり美術の世界でいうステンシルの手法である。まず版木でデザインの輪郭を彫り、それを彩色で用いる色の数だけ刷って、木蝋などに浸して油紙化して、その色を入れる部分だけ小刀で切抜く。これと別に同じ版木から同一の画面を数百枚墨色に刷り上げ、その上に穴の開いた油紙を置き、上から顔料のついた刷毛で撫でることで、穴の開いた部分だけに色が印刷される。それを乾かしてから次の色を印刷する。この色入れを繰り返すことで多色摺りのカルタができあがるのである。しかし、初期の制作法や、後の時代でも少数の注文に応じる場合に、骨刷りの後に手描きで色入れを行っている例がある。また、合羽摺りの弱点として、円環や菱形の模様などが一度では彩色できない点がある。普通は「柱」を残すことで処理しているが、そうでなければ一色を二度に分けて印刷しなければならなくなる。それをいやがって、合羽摺りで一部の色は手描きというものもある。現代に残る「小松」という「地方札」はそうした合羽摺りと手描きの混合製法の例である。

天正カルタの場合には、滴翠美術館のカルタの彩色方法を穴の開くほど見たうえで、色塗りがデザインの輪郭に正確に忠実で、最初期の合羽摺りではここまでは無理であったであろうことから、手彩色に決定して、手描きの技法に長けている京都の宮脇売扇庵に依頼した。これは、作業工程を決定するもっとも重要な決定の一つであり、松井とも相談したうえで決定した。

古いカルタの復元に当たって考えなければならない一つの重要なポイントが、彩色の「ずれ」をどのように処理するかである。古い花札や地方札を見ると、かならず、色入れが骨刷りの輪郭線からずれている。「越後花」などでは、むしろこれが手作りの味として珍重されるが、どことなくカルタ制作技術のレベルが低くて色がはみ出したように思われがちである。

しかし、この「ずれ」は、合羽摺りというカルタの制作工程から生じる不可避のポイントであり、カルタ職人の腕前の問題ではない。だから、古い手作り時代のカルタを復元する際には、必ずこの「ずれ」を入れたデザインにしなければならない。江戸時代の賭博系のカルタを復元しようとするのであれば、ここに細心の注意を払わないと、でき上がるカルタは江戸時代のものの輝きというか、味というか、風合いがないまがい物になってしまうし、彩色が骨刷りの線に収まっているものは、京都のカルタ職人が「今の時代の塗絵のおもちゃですな」というようなものに仕上がってしまう。

この問題を理解するために表紙(おもてがみ)の印刷について書いておこう。まず、カルタの用紙は、骨刷りを済ませると、湿気を与えては色を載せてゆくという作業を繰り返す。この段階で乾燥にともなって紙が縮小するので色入れされる部分に狂いがでる。他方、骨刷りした和紙から製作する色入れの台紙は木蝋などの油に浸すので縮小することはない。こうなると、縮まない色入れの台紙で縮んだ表紙(おもてがみ)に印刷することになり、「ずれ」が生じる。それも同じ一枚の表紙でも、中心よりもはじのほうが「ずれ」が大きい。たとえば昔からの版木を使った花札では、はじのほうに配置されている「菖蒲」のカス札、「柳」のカス札、「梅」のカス札などに「ずれ」が大きく出てくる。逆に、これらの札の「ずれ」が小さく、他の札の「ずれ」が大きい場合には、制作工程に何かの違いがあったことを意味する。

なお、カルタの制作工程としては、この後に、「じん糊」と「ミョウバン」を溶いた物を塗って色留めと艶だしに備えた後で、カッパ刷りの色入れになる。色入れが済めば、乾燥させ、金銀彩が必要なものは判捺しをして、それから一枚のカルタの大きさに裁ち、裏紙との合体に進んで行く。

したがって、手作りのカルタでは、彩色のずれが必ず起きる。地方札の「小松」の例でみると、明治時代(1868~1912 )の版木では、左はじに紋標「イス」の札が、右はじに紋標「オウル」の札がくる。そして、どうも左はじに「見当」を合わせて制作していたようで、「イス」におけるずれよりも「オウル」におけるずれの方が大きい。また、同じ「オウル」でも、「三」「六」「七」「八」の四枚が最右翼に並ぶので、隣の列の「五」「二」「四」「九」よりも少し「ずれ」が大きい。

彩色の「ずれ」にはこういう深刻な問題があるので、「三池カルタ」の復元に際しても気を使った。結果的に、手描きと判断したので難点をクリアーできたが、恐いポイントである。

なお、神戸市博物館の「天正カルタ版木重箱」を基本に復元かるたの版木を制作したために生じた困った問題があった。問題は一部の札の縦の寸法にあった。版木を重箱に仕立てた幕末期(1854~67)ないし明治前期(1868~87)の職人が、重箱を美しくみせるためか、それとも版木に傷があったためか、上段と中段の版木の上端をごくわずかだが削り取ったからである。そのために、上段、中段は下段と比べて二ミリないし三ミリ浅くなっている。版木で言えば、上段と中段の分は縦が二ミリないし三ミリ小さいのである。これをそのまま復元してカルタに仕立てると、上段の十六枚と中段の十六枚が寸の足りないカルタになってしまう。松井は、この難点を、上段と中段の版木の復元物についてはカルタの上端より少し外で裁断し、下段は少し中で裁断することで解決した。少し外で裁断した場合は、その空白の部分を裏紙の縁返し(へりかえし)でカバーする必要が生じる。そのためには、裏紙をきわめて正確に貼らないとできない。この技術は手貼りのカルタの歴史上でも空前の困難な超絶作業だった。私たちは、作業にあたった松井に、苦労をかけますと何回も頭を下げているし、二十組単位でカルタができあがるたびに感謝も表している。

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