私は、崇徳院の上畳の問題をこういう文化史の背景の中で理解するようになった。後水尾朝廷が崇徳院を「廃帝」として上皇位から追放し、幕府がそれを良しとせず、暗黙裡にそれを是正して上皇とするように求めたという、元禄年間(1688~1704)に至る江戸時代初期、前期の歌人絵をめぐる歴史的な事情、文化的な背景を見据えたうえでの理解に努めているのである。つまり、①江戸時代前期の寛文年間(1661~73)頃までに、『素庵百人一首』や『尊圓百人一首』の土佐派の図像に基づく無畳の崇徳院のかるた絵が成立し、②万治・寛文年間(1658~73)に、歌仙絵の世界での土佐派の覇権に挑戦する江戸狩野派による繧繝縁(うんげんべり)の上畳の崇徳院図像が成立し、③延宝年間(1673~81)に、江戸狩野派に同調する菱川師宣が版本の世界での崇徳院の図像の刷新を試み、④元禄年間(1688~1704)までに崇徳院の上畳の描写を改めた標準型のかるたが圧倒的になった、という経緯がある。こういう事情を全く理解できなくて、「江橋さんの言っていることは誤りで、崇徳院の上畳での情報はかるたの製作年代判断の決め手にはならない。上畳の表現の転換点は宝暦、明和の頃」などとあてずっぽうに言い切るのは、和歌の文化を社会史の中で位置づけることがまったくできないと自白しているのであり、歴史のドラマを理解できないその考え方の浅さは笑止のかぎりである。

こうして、崇徳院の上畳の変更という、百人一首かるたの世界ではごく些細なほころびが、江戸時代前期の元禄年間(1688~1704)に、歌人画像付きの百人一首かるたの画像がどのように転換されたのか、そこにはどういう事情、どういう背景があったのかを解明する鍵となった。ここを糸口として、百人一首かるた研究史に踏み込み、これまではまったく明らかになっていなかった歴史の真実の姿を解明できたことを、私は幸運であったと思っている。そして、結果的に私は従来の百人一首かるた文化史を一新したのだが、数十年前に、それに関してまったく知識もなく、右も左もまったく分らなかった時期から、私の研究を支えてくれたのは、山口吉郎兵衛の『うんすんかるた』であり、山口格太郎からの様々な教示であった。

今はこんなに偉そうにしている私だが、まだ昭和だったころ、「諸卿寄合書かるた」での発見に驚愕して、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、山口格太郎に面談し、「お持ちの道勝法親王かるたにも、白洲さんの浄行院かるたにも同じ問題があるのですがどうお考えですか」と問い詰めた。最高の研究者に対してずいぶん失礼であったと思う。山口は、唖然とした表情であったが、生意気だったが初々しくもあったまったくの初心者の私からの素朴な疑問に優しく励ますアドバイスで返してくれた。この時の安堵と感謝の気持ちは今も変わらない。素庵本や尊圓本についても様々に教示いただいた。だから、国会図書館で大田南畝旧蔵の菱川師宣『小倉山百人一首』を発見し、その序文や後記で『素庵本』や『尊圓本』の歌人像に真正面から挑戦していることを知った時も真っ先に山口に報告したかったが、すでに叶わなかった。 話題が逸れた。百人一首の歌人像付きかるたの図像に付いては、元禄年間(1688~1704)に大きな転換があった。かるた制作者の立場からすれば、数十年前に刊行され、残冊も僅少になった『素庵本』よりは刊行が繰り返されてきた『尊圓本』の方が見本として入手しやすかったので永年それを愛用していたところに、革新的な『師宣本』が現れた。その内容も魅力的であったが、さらに一層入手しやすかったという事情もあって、深い考えもなしにそれを手本にするよう絵師に渡しただけなのかもしれない。だが、師宣の思いはしっかりと伝わり、『素庵本』、『尊圓本』での混乱は改められた。この大転換が元禄年間(1688~1704)に起きたことはきちんと記録し、記憶にとどめておきたい。

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