ここに掲載するのは、約二十年前に書いた文章が基になっている。当時私は、麻雀博物館の設立に関わり、日本の麻雀史の筋を通した史料の蒐集、展示の確立に向けて悪戦苦闘していた。その過程で書き残したものである。今回読み直して当時を思い出し、懐かしくもあったが、学識の不足は明らかで、大小さまざまな誤解と誤記に赤面の至りである。特に平成二十八年(2016)に大谷通順の『麻雀の誕生』[1]が現れるに及んで、私はおのれの非才、勉強不足を思い知らされた。大谷の緻密な文献検索に比べると、私の仕事の粗っぽさが眼に痛い。しかしこのように書いてしまったことはもはや麻雀史研究の歴史的事実であり、ここでは多少の補訂を施したが、若さで暴走している基調は変えていない。各々の発表の時期が違うので、こうしてまとめてみると説明が多少重複してしまう個所もある。見苦しいとも思うが、過去は取り消せないので今後の学界の批判に委ねたい。

念のために元の文章の掲載誌を示すと次のようになる。

一 麻雀牌が語る麻雀史への道 新原稿

二 十九世紀の麻雀牌(プロト・マージャン) 『麻雀博物館会報』2005年春季号、夏季第10号、秋季第11号(2005年)

三 「自由麻雀」時代の麻雀牌 『麻雀博物館会報』2006/夏季号(2006年)

四 榛原茂樹牌と梅蘭芳牌 『麻雀博物館会報』2006/梅蘭芳特集・第13号(2006年)

五 花牌の盛衰史 『遊戯史研究』第9号(1997年)

私は元来、カルタの歴史に関心があり、ほぼ四十年以前から研究を進めていた。そうすると、世界のカルタ史は中国の「錢牌」というカルタ札に始まり、元代に中国南部での交易に付随してそれがアラビアに移り、そこでもてはやされたのちに、今度は地中海交易に付随して南ヨーロッパのアラゴン連合王国に伝わり、十四世紀後半、ほぼ同じ時期に同国の領土であったイタリア半島、イベリア半島に伝わり、そこから全ヨーロッパに広まり、また、十五、十六世紀の大航海時代に、スペイン、ポルトガルのアジア、アメリカへの進出、侵略に伴い全世界に広まったという経緯が見えてきた。世界のカルタの元祖は中国の紙牌であったのだ。

しかし、肝心の中国では、1960年代の文化大革命の時期に、紙牌は旧弊、害毒、毒虫であるとして厳しく禁止され、すでに絶滅してしまったと理解されていた。これが1970年代のカルタ史研究者の世界的な常識であり、はなはだ残念であったが私もそう信じていた。ところが1980年代に中国を訪れる機会が増えて、各地で、一般の人々の間で今なお紙牌が普通に遊ばれている場面に出会った。滅んだはずの紙牌がしぶとく生き残っていたのである。それは、「馬弔(馬吊)紙牌」であり、「将棋紙牌」であり、「天九紙牌」であり、「文字紙牌」であり、その他の種類もあったし、各地でその地方に特有の「地方札」が生きていた。四川省の客家の村では、明代に滅んだはずの四紋標の「馬弔(馬吊)紙牌」が今なお制作され、使用されていた。私は南北は黒竜江省から広東省まで、東西は浙江省から四川省、陝西省まで、むさぼるように蒐集を始めて歩いたが、他のコレクター、研究者と出会うことはなく、その噂さえ聞いたことがない。多分、私は当時の世界で唯一の風変わりな中国紙牌のコレクターであったと思う。


[1] 大谷通順『麻雀の誕生』、大修館、平成二十八年。

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