まめカルタの賭博カルタに関する情報も併せ考えると、江戸時代初期、前期のかぶカルタ系の賭博カルタ遊技については次のような理解ができる。まず、きんごカルタの遊技法の伝来ないし発祥は分からない。少し遅れたであろうかぶカルタ遊技法の伝来ないし発祥も分からない。ただ、「かぶ」という言葉は「おいちょ」と並ぶ外来語である。もし「かぶカルタ」遊技が純粋に日本国内で考案された「和製きんごカルタ遊技」であるならば、「読みかるた」遊技や「合せカルタ」遊技のように、日本語の名称が付いたであろう。外来語の「かぶ」が使われているのは、この遊技法の起源が海外にあることを示唆している。
次に、「かぶカルタ」遊技の勝数がなぜ「九」なのかである。三枚の札を手中にして競う遊技法では、「一」から「十」までの数の札を三枚手にした時の数の合計は、平均すると十五になる。この遊技での勝数を最も出現しやすい十五に設定して、わずか一超えただけで必敗の地獄に転落させるという「きんごカルタ」遊技の設定は数理的に合理的である。一方、勝数を「九」及び「十九」の二箇所に設定する「かぶカルタ」遊技は、遊技参加者に「きんごカルタ」の場合よりも複雑な戦略的思考を要求することになるが、数理的にはやや歪んでいる。勝数「九」の設定は数理的な判断からくるものではない。それは「九」を最善とする文化の所産である。私は、「十五」を勝数とする遊技法のあとから「九」を勝数とする遊技法が考案され、流行した背景には、「九」という数字を最善とする中国文化の影響があると思っている。「かぶカルタ」の遊技法が中国から伝来したのか、それともその案出に日本の長崎に滞在する中国人遊客の関与があったのかは知らないが、いずれにせよ、勝数「九」には中国文化の匂いがする。
したがって、私としては「きんごカルタ」遊技も「かぶカルタ」遊技も海外から伝来したものと考えている。
江戸時代前期(1652~1704)には、多分大坂に、「菊一」印のカルタ制作業者があり、そこから、主として近畿地方の各地向けに「ハウ」紋標を繰り返す一組四十八枚のきんご札が、また西日本の各地向けに九度山タイプの「オウル」紋標を繰り返す一組四十八枚の賭博カルタが出荷された。その後、「菊一」からは、きんご札を一組四十枚に縮めたかぶカルタ(現物は未発見)と、九度山札を四十枚に縮めたまめカルタ(版木史料あり)も売り出された。きんご札が古く、かぶカルタがそれに続いたと考えられる。さらにその後、京都、大坂のカルタ屋で近畿地方向けのかぶカルタが制作されるようになった。一方、西日本向けのまめカルタの賭博札については菱屋(仮称)が引き継ぎ、さらに徳島、岡山、広島などにカルタ屋ができて現地での制作が始まった。結果的に、小丸札、目札、大二札、九度山札などの、相当に図像の異なる地方札が生まれた。なお、鹿児島地方だけは、上述したように、一紋標四十八枚のきんごカルタや四十枚のかぶカルタになじまず、四紋標、四十八枚の、めくりカルタ系の「小天正」や「小獅子」と呼ばれるカルタ札を使い続けた。
残存するカルタ札の物品史料から見えてくるのは大体この程度であり、変化が生じた理由と、その年代は分らないままである。一方、遊技法の変遷の方は、これもとくにきんごカルタの遊技法の情報が不足していてよく分からない。文献史料も少ないし、任天堂が制作した入の吉札の最終出荷地は和歌山県南部であったが、私が研究を始めたころにはすでにこの遊技に通じている人を発見できなかった。また、上記の任天堂の宣伝ポスターに記載された入の吉札の出荷地は「紀州、志摩、伊勢、外國東西濠州各地」であり、ここに「外国東西濠州各地」とあるのが奇異であるが、その実態は、オーストラリア領のアラフラ海沿岸諸島で、シャツのボタンに使用する真珠貝の貝殻の採取が盛んで、そこに紀州の潜水漁法の漁夫たちが大量に出稼ぎに行き、水商売の女性も大挙して出かけ、そこで故郷で遊んで憶えていた入の吉の賭博遊技が盛んに行われたということであった。この日本人についてはオーストラリアの移民史研究者も関心をもち、論文を書いている。私は、カブに関するオーストラリア人の人類学研究者の調査研究は読んだことがあるが、入の吉に関するものもどこかに残されているであろうと思うが、その存否もまだ知らない。