それはさておき、ここでまずとくに注目するのは、この『うんすんかるた』所載の「絵合せかるた」一覧の最上部に掲げた、寛永期(1624~44)のものとされる「能狂言絵カルタ」である。能、狂言、舞楽などの舞台芸能を描いたかるたは、江戸時代後期(1789~1854)に登場した、歌舞伎の舞台や役者を描いたかるたの始原の姿、「舞台芸能絵合せかるた」である。山口はこう報告している。「能狂言絵カルタ 断片十二枚 竪七センチ五ミリ、幅四センチ八ミリ。札の表は紙地金箔粗散し、裏は画帖に貼ってあるので不明。同様の絵の漢字札と仮名札を合せるものらしい。断片の曲目は安宅、松風、白楽天、花月、朝夷奈、武悪、三本柱、しみつ、犬山伏、こんくわい、しびり、あくほうである。絵様は奈良絵風の粗画であるが古風で雅致がある。文字の書風から見ても最古の絵合せカルタらしい。(寛永)」[1]。これは山口が蒐集した日本式かるたの中ではもっとも初期のものである。すでに述べたように残念なことに十二枚の残欠しか残っておらず、中に「漢字札」と「仮名札」が揃うものがないが、「安宅」「松風」「白楽天」「花月」「朝夷奈」「武悪」「三本柱」「犬山伏」が「漢字札」で、「しみつ」(清水)、「こんくわい」(釣狐)、「しびり」(痺)、「あくほう」(悪坊)が「仮名札」であろう。「漢字札」「仮名札」のいずれのカードにも図像がついているところはこの時代のかるたの特徴そのものである。十二の曲目の内、「安宅」「松風」「白楽天」「花月」は能の曲名であり、「朝夷奈」「武悪」「三本柱」「犬山伏」「清水」「釣狐」「痺」「悪坊」は狂言の曲名であるから、「能狂言絵合せかるた」であるように見えるが、かるた札のデータや図像の開示がないので、二組の「能絵合せかるた」と「狂言絵合せかるた」のわずかな残欠が混ぜ合わされているものである可能性を排除できない。なお、このかるたについては、図像が公開された例がない。その内容が明らかになれば、研究がもっと進むので、データの公開が強く望まれるところである。

狂言合せカルタ

狂言合せカルタ
(大牟田市立三池カルタ ・歴史資料館蔵、
江戸時代前期)

もう一つ、「舞台芸能絵合せかるた」の歴史をめぐる史料として重要なのが、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館が所蔵する江戸時代前期(1652~1704)の「狂言絵合せかるた」である。これは「茶壺」「ちやつぼ」、「鈍太郎」「どん太良」、「伊呂波」「いろは」、「節分」「せつぶん」など、五十種類に及ぶ狂言の曲目について、二枚のカードにその曲目を演じる役者の舞台像の絵が手描きで描かれているかるたである。その絵柄は二名ないし三名の演者が二枚のカードに分かち描きされていて、各々に「漢字札」と「仮名札」があり、五十対・百枚のカードが揃って残されていて史料的な価値をひときわ高めている。このかるたはすでに平成十四年(2002)刊、大牟田市立三池カルタ記念館(現三池カルタ・歴史資料館)編・刊の『図説カルタの世界』[2]で一部の図像を公開してあり、今では全データが公開されているので、次項でさらに詳説する。

 

この二点の史料により、江戸時代前期(1652~1704)にはすでに「能絵合せかるた」や「狂言絵合せかるた」などの「舞台芸能絵合せかるた」が存在していたことが分かる。この他にも、明治期(1868~1912)にはじまる好事家の集団「集古会」の展示会の記録『集古』にも江戸時代の「狂言かるた」「雛屋立圃画能楽歌留多」「明和年間俳優似顔かるた」「舞楽箔かるた」「狂言尽辻占かるた」「葉唄都々一あふむ石かるた」「役者いろはかるた(國周畫澤村板)」「能五十番合かるた」などがある[3]

 

このうち三点は、別に、『清水晴風手控え帳』に模写絵がある。「狂言かるた」は「正徳享保年能狂言かるた」であり、役者の姿が一枚に一人ずつ描かれている。役名の表示がないので、未完成品である可能性が残る。「雛屋立圃画能楽歌留多」は「貞享年頃能楽尽しの歌留多野々口立圃の画なりといふ 松廼舎君所蔵」であり、「高砂」「竹生嶋」「道成寺」「八嶋」「羅生門」の五枚に各々主役一名(高砂は二名)の画像がある。『集古』は文字情報だけなので、この手控え帳での画像の記録は史料として有難い。三点目は「役者いろはかるた」であり、「宝暦末頃役者かるたいろは文字合九十六枚の内 安田君所蔵」とある。これも好史料であるが、ここでの論述のテーマからは外れるので紹介は別の箇所に譲る[4]

なおこの他に、『清水晴風手控え帳』には、「順禮かるた」の模写もある。「天和年頃俳優見立順禮かるた 豊芥子旧蔵裏書有」であり、「六番大和坪坂寺 大和屋長三郎」「九番奈良南圓堂 小野川宇源次」「廿二番津國惣持寺 袖崎かりう」「廿四番津國中山寺 松本兵蔵」などの五枚が模写されており、順礼姿の図像とともに和歌が掲載されている。模写されている和歌はいずれも上の句であり、下の句札がどのような図像であるのかは分らない。これをこの「舞台芸能絵合せかるた」の項で扱うのは、小野川宇源次、袖崎かりう、松本兵蔵などの当時の人気役者の名前が添えられ、巡礼姿もこの者たちの舞台姿に見立てて描かれているからである。元禄年間(1688~1704)の役者姿をした女順礼の流行に便乗して、順礼の巡る寺社の名前やそこを詠う和歌を盛ったかるたを売り出したのか、人気の歌舞伎役者を取り上げたかるたを売り出したのか、舞台芸能のかるたが歓迎されていたことの傍証となる。

正徳享保年ころ狂言かるた
正徳享保年ころ狂言かるた
(『清水晴風手控え帳』)
貞享年頃能合せかるた
貞享年頃能合せかるた
(『清水晴風手控え帳』)
天和年頃俳優見立巡禮かるた
天和年頃俳優見立巡禮かるた
(『清水晴風手控え帳』)
謡かるた

謡かるた
(宝鏡寺蔵、『王朝のあそび』)

 

 

なお、これらと別に、京都の宝鏡寺に「謡かるた」一組がある[5]。謡は能の声楽部分であり、裏紙が紺色と黄色のかるたの札には、謡曲の演目が漢字で書かれている。ただ、データの公開はここまでであり、情報が不足していて、この種のかるたの発祥の時期や経緯、全体の枚数や個々の札の記載、遊技法などは分らないので、私はこれ以上の言及はしてこなかった。全面的な情報公開が待たれるところである。

 


 

[1] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一四二頁。

 

[2] 大牟田市立三池カルタ記念館(現三池カルタ・歴史資料館)編『図説カルタの世界』、同館、平成十四年。

 

[3] 江橋崇『ものと人間の文化史173 かるた』、法政大学出版局、平成二十七年、二一六頁。

 

[4]清水晴風手控え帳『歌留多之類』、清水晴風玩具絵本の会所蔵、明治三十九年。なお、同書にも「舞楽箔かるた」「能五十番合かるた」については情報がない。また、「俳優似顔かるた」「狂言尽辻占かるた」「葉唄都々一あふむ石かるた」は題名から江戸時代後期、幕末期のものと想定される。

 

[5] 朝日新聞社『王朝のあそび』、朝日新聞東京本社企画第一部、昭和六十三年、三〇頁。

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