大日本帝國の対外膨張を考える時にもう一つ気になるのは、和歌の「歌合せかるた」である。それには、明治時代からの和歌の政治的活用の経緯が関係する。

明治時代になって、近代的な国家の枠組みを形成する際に、人々が「国民」という一つの塊に属していることを自覚させ、そこから国とその頂点に立つ天皇への忠誠と協力を確保する国民文化を創出する試みが強く進められた。その際、古来の伝統である和歌が注目され、活用がはかられた。それは、明治二十年代に始まり、三十年代に、百人一首の排撃と、国民の和歌集としての萬葉和歌集の称賛を生み出した。そして、その後、萬葉集への高い評価は維持され、四千五百首の和歌から百首を選び出して「萬葉百首」とする試みが生じ、それがカルタにされて「萬葉百首歌かるた」が成立した。約三十年かけて成立したこの遊技では、遊技法は「百人一首歌かるた」のそれを同工異曲であったが、平安時代の柔らかな日本語の和歌を優美に読み上げる方式が、率直で直截な万葉集の和歌の朗詠に適するかはとくに論じられることはなく通用した。この点では、漢詩かるたのように、詩歌の内容と形式にふさわしい独特の吟唱法が採用されることはなかったのである。ただ、かるた遊技の「上の句」と「下の句」に二分して朗誦する形は、すべての和歌を三句切れで理解するという乱暴な話であり、例えば持統天皇の和歌である「春過ぎて夏来るらし・白妙の衣干したり・天の香具山」であるところを「春過ぎて夏来るらし白妙の・衣干したり天の香具山」と読むことは「白妙の衣」という語を二つに引き裂いていていかがかと思われるし、それを、藤原定家流にたおやかな平安言葉に書き換えて「春過ぎて夏来にけらし白妙の・衣干すちょう天の香具山」としても、不自然さは解消しない。「萬葉百首かるた」の場合はこの不自然さがさらに目立つのである。「競技かるた」では、スピード勝負に求められる公平さから、すべての和歌を単調に同じ抑揚で読み上げるのであるが、それでは和歌の内容にかかわらないでスピードだけの「競技かるた」であればいいのだろうけど、歌意を味わう文芸の遊技である「かるた取り」には不適切であるという批判は解消できない。

さて、日清戦争、日露戦争の後、日本が海外に植民地を持つようになると、そこに進出した日本人の間に、和歌の文化を共有し、一種の歌壇を形成するべく、同人集団が形成された。私は、この方面の研究が手薄で、文献史料を読んだ程度の文献史学なのではなはだ不本意であるが、とりあえず概説しておこう。

朝鮮での「朝鮮歌話会」の結成や日本からの若山牧水らの訪朝、在朝の日本人歌人の動向などについては三井実雄『私の満洲歌壇史』[1]、是谷古之介「文藝漫話朝鮮歌壇の變遷」[2]などに見ることができるし、台湾については加納小郭家「臺灣歌壇の展望」[3]、樺太については鈴木大二「樺太の歌壇現状」[4]、満洲については上の三井の著作のほかに和泉あき「『アカシア』から『短歌精神』へ」[5]、そしてもっとも若い植民地となったシンガポールについては橋本徳壽、落合京太郎、小野昌繁「歌壇展望 シンガポールの歌壇を中心として」[6]などが参考になる。

和歌を詠むことで、その風景が日本のものになり、その土地、人民、文化、民俗が昔から日本であったと確認、保証されるという発想は、東北地方の征服に継いだ蝦夷地への侵略に際して、アイヌの族長が和歌を詠んでいたという驚くべき発見を生み、族長が日本語で詠んだ和歌や、さらにはアイヌの言葉で詠んだ和歌までが「発見」された。無文字文化のアイヌにしては驚嘆するべき事態である。だが、これにより、アイヌは古来から日本人の一部とされ、蝦夷地は日本に帰属して北海道になった。また、南方では、琉球王朝の国王も和歌を詠み、それが日本で披露され、古来琉球は日本に属していたことの証しとなった。琉球の場合は、それだけでなく、五七五七七の和歌の形式に属さない古歌が様々にあり、それが和歌に準じるものとして評価された。それらを集めた『琉歌百人一首』[7]もある。こうして琉球も日本になった。

要するに、日本の植民地では、まず歌人が渡来して和歌を詠み、そのうちに歌壇が形成され、百首の歌集が編まれ、それが「〇〇百人一首歌合せかるた」にされて遊技に使われるという順序で歌合せかるたが誕生するのであるが、日本の植民地支配は比較的に短期間で破滅し、その地に独自の「歌合せかるた」の誕生には至らなかったのである。もし、もう一世代、二、三十年日本の支配が続いていたら、きっと巷には「朝鮮百人一首かるた」や「満洲百人一首かるた」が溢れていたことであろう。


[1] 三井実雄『私の満洲歌壇史』、私家版。

[2] 是谷古之介「文藝漫話朝鮮歌壇の變遷」『朝鮮公論』第十一巻第一号(新春号)、朝鮮公論社、大正十二年、一四三頁。

[3] 加納小郭家「臺灣歌壇の展望」『短歌研究』第六巻第七号、改造社、昭和十二年、二八二頁。

[4] 鈴木大二「樺太の歌壇現状」『日本北方文化建設導標 樺太』第十二巻第二號、樺太社、昭和十五年、一三八頁。

[5] 和泉あき「『アカシア』から『短歌精神』へ」『植民地文化研究』第五号、植民地文化研究会、平成十八年、六〇頁。

[6] 橋本徳壽、落合京太郎、小野昌繁「歌壇展望 シンガポールの歌壇を中心として」『短歌研究‘74』、和歌研究社、昭和四十八年、一二頁。

[7] 池宮喜輝「琉歌百人一首」『琉球芸能教範』、月刊沖縄社、昭和六十二年、三八二頁。

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