子ども向けの「イロハかるた」は明治前期(1868~86)には和紙に木版摺りのものが多かったが、徐々に洋紙に機械印刷のものに変わるようになり、およそ明治三十年代(1897~1906)までには、江戸文化の香りを残した東京出来の木版の「イロハかるた」は終期を迎えた。最末期を飾ったのは日清戦争、日露戦争を主題にした「軍人いろはかるた」「支那閉口カルタ」「日露戦争かるた」「海陸軍戦争カルタ」などであったが、それらも一過性の商品で、長期的に売れ続けて定番のカルタになるほどのことではなかった。また、かるたの販売の形態も変化した。玩具商や絵草紙屋で売られていたものが、絵草紙屋が衰退して廃業し、書店という営業の形態に代わった明治三十年代(1897~1906)頃からは主として書店で扱うものとなった。これはトランプや「花札」でも同じことで、ごく安価なものは駄菓子屋で売っていたが、一応の水準のものは主として書店で取り扱われるようになった。「イロハかるた」はカルタ屋という職業から独立して近代の出版文化の一環になったのである。

軍人イロハかるた
軍人イロハかるた
「支那閉口かるた」
「支那閉口かるた」
「日露戦争かるた」
「日露戦争かるた」
「海陸軍戦争カルタ」
「海陸軍戦争カルタ」
「漫画犬棒カルタ」
「漫画犬棒カルタ」
「最上裏張イロハカルタ」
「最上裏張イロハカルタ」
「犬棒イロハカルタ」
「犬棒イロハカルタ」

このように変化すると、出版業の中心は東京であったから、「イロハかるた」も東京の出版社から発行されるものが増加し、業界のリーダーシップは関西から東京に移った。この変化と裏腹に「イロハ譬えかるた」でも東京風の「犬棒かるた」が圧倒的に優勢になっていった。ただ、その陰で、元来は「譬えかるた」「イロハ譬えかるた」の発祥の地であり本場でもあった「上方」の「イロハかるた」は凋落した。その終末期を書き残したのは関西人で上方言葉研究者の牧村史陽である。牧村は、昭和三十年(1955)刊の『大阪方言辞典』[1]の末尾に「いろはたとへ」と題する一文を載せ、自分が小学校に入学した頃を回想して、明治三十七、八年(1905~06)の日露戦争以前には、大阪に一枚刷りの上方風の「イロハかるた」があって、それを購入して裏打ちをしてから切り離してカルタに仕立てて遊んだのに、日露戦争後には東京の出版社製である東京風の「イロハかるた」が大量に流れ込んできて大阪製の粗末なものを駆逐してしまった、と証言している。

牧村が回顧している上方の一枚刷りの「イロハかるた」は、幾通りもの物が並列して存在していた。ここで代表的な例を二例挙げておこう。明治十年代(1877~86)、四十年代(1907~12)の、本場大阪製の「いろはたとへ」である。参考までに、終末期、大正四年(1915)のものも添えておこう。

上方イロハ譬えかるた1
上方イロハ譬えかるた1
上方イロハ譬えかるた2
上方イロハ譬えかるた2
上方イロハ譬えかるた3
上方イロハ譬えかるた3

①「新版いろはたとへ」(明治十八年■[2]月■日御届 同年■月■日発編集出版人 大阪府平民 富士政七 同府下南區安堂寺橋通三丁目三十番地)

 
いすんさきはやみ
ろんごよみのろんごしらず
はりのあなからてんのぞく
にくまれごはよにはびこる
ほとけのかほもさんど
へたのながだんき
とうふにかすがい
ぢごくのさたもかねしだい
りんげんあせのごとし
ぬかにくぎ
るいをもつてあつまる
をヽたこにおしへられてあさせをわたる
わらふかどにはふくきたる
かいるのつらにみづ
よめとうめかさのうち
たていたにみづ
れんぎではらきる
そでのふりあわせもたしやうのゑん
つきよにかまぬく
れこにこばん
なすときのゑんまがほ
らいねんのこといやおにがわらふ
むまのみヽにかぜ
うじよりそだち
ゐわしのあたまもしんゞゝから
のみといわばつち
おにも十八
くさいものにはいがたかる
やみにてつぽう
まかぬたねははへぬ
げたにやきみそ
ふくろとりのよいたくみ
これにこりよどうさいぼう
えんとつきひ
てらからさとへ
あしもとからとりがたつ
さをのさきにすヾ
ぎりとふんどし
ゆうれいのはまかぜ
めくらのかきのぞき
みはみでとふる
しわんぼうのかきのたね
ゑんのしたのまい
ひようたんでなまづ
もちはもちや
せんちでまんぢう
すゝめ百までおどりわすれぬ
京にいなかあり
 

②「いろはたとへ」(明治四十三年八月五日御届 同年同月同日印刷及発行 大阪市南區松屋町卅九番地 榎本書店)

 
いしのうゑにも三ねん
ろんごよみのろんごしらず
はりのあなから天のぞく
にかいからめぐすり
ほとけのかをもさんど
へたのながだんぎ
とうふにかすがい
ぢごくのさともかねしだい
りんげんあせのごとし
ぬかにくぎ
るいをもつてあつまる
をにも十八じやもはたち
わらふかどにはふくきたる
かいるのつらにみづ
ようみへとうみへかさのうち
たていたにみづ
れんぎではらきる
そでのふりあはせもたしよのゑん
つきよにかまぬく
ねこにこばん
なすときのゑんまがを
らいねんのこというとおにがわらふ
むまのみゝにかぜ
うぢよりそだち
ゐはしのあたまもしんじんから
のみといわばつち
おうたこをしへられあさせをわたる
くさつてもたい
やみにてつぽう
まかぬたねははゑぬ
げいわみをたすくる
ぶしはくわねどたかやうじ
これにこりよどうさいぼう
ゑんのしたのまい
てらからさとへ
あきないはうしのよだれ
さるもきからおちる
ぎりとふんどしかゝねばならぬ
ゆうれいのはまかぜ
めくらのかきのぞき
みはみでとをる
しわんぼうのかきのたね
ゑようにもちのかわむく
ひようたんからこま
もちはもちや
せんちでまんぢう
すヾめ百までおどりわすれぬ
きやうにいなかあり
 

③「いろはたとへ」(大正四年五月一日印刷 同年五月五日発行 「丸と」 「丸七」 大阪市南區松屋町卅九番地 「丸法」 榎本書店)

 
いやゝゝ三ばいまた三ばい
ろんごよみのろんごしらず
はりのあなからてんのぞく
にくまれごはよにはびこる
ほとけのかほもさんど
へたのながだんぎ
とうふにかすがい
ぢごくのさたもかねしだい
りんげんあせのごとし
ぬかにくぎ
るいをもつてあつまる
をにも十八じやもはたち
わらふかどにはふくきたる
かはいヽこにはたびをさせよ
よめとうめかさのうち
たていたにみづ
れんぎではらきる
そでのふりあはせもたせうのゑん
つきよにかまぬく
ねこにこばん
なすときのゑんまがほ
らいねんのことゆうとおにがわらう
むまのみみにかぜ
うぢよりそだち
ゐわしのあたまもしんじんから
のみといはばつち
おうたこおしへられあさせをわたる
くさってもたひ
やみよにてっぽう
まかぬたねははへぬ
げいわみをたすける
ぶしはくわねどたかようじ
これにこりよどうさいぼう
えんのしたのまひ
てらからさとへ
あきないはうしのよだれ
さるもきからおちる
ぎりとふんどし
ゆうれいのはまかぜ
めくらのかきのぞき
みはみてとをる
しわんぼうのかきのたね
ゑようにもちのかはをむく
ひざがしらでえどへゆく
もちはもちや
せんちでまんぢう
すヾめ百までおどりわすれぬ
京にもいなかあり
 

このような上方の「イロハ譬えかるた」の語句の内容、江戸の「犬棒イロハかるた」との比較、そして背後にある上方の町人文化などについては、森田誠吾、池田弥三郎[3]、戸板康二[4]、檜谷昭彦[5]、藤本義一・杉浦日向子[6]、時田昌瑞[7]、その他の人々によってさまざまに検討されている。私にも自分に独自の見解があるが、ここではこの論議を後追いすることはやめて、どちらかというとこれまではあまり注目されてこなかった画像についてのみ一言触れておこう。

「そでのふりあわせもたしやうのゑん」
「そでのふりあわせもたしやうのゑん」

私が一番注目しているのは、「そ」の「そでのふりあわせもたしやうのゑん(そでのふりあはせもたせうのえん)」の絵札である。上方の「イロハ譬えかるた」は、明治前期(1868~86)、中期(1887~1902)になっても依然として江戸時代の図柄をそのまま踏襲しており、ほとんどの札の登場人物は江戸時代の風俗、ちょん髷姿である。したがって、かるた札を見ただけでは、それが江戸時代(1603~1867)のものか、明治時代1868~1912)になってからのものかの識別がしにくい。しかしその中にあって「そ」の札は、帽子をかぶった粋な紳士が町で若い女性と袖を振り合わせて知り合いになるという場面である。この先、紳士と女性との交際が始まり、男女の仲になり、将来は上流階級の家の嫁となる未来が透けて見える。つまりここでは、明治時代(1868~1912)にのし上がってきた新しい金満家の上流紳士が、街で若い女性をナンパしている様を描いているのである。ここに、西洋の帽子をかぶるという明治風俗が現れていて、そのかるたが明治時代(1868~1912)のものであることが分かるのである。この図柄は、明治四十年代(1907~12)のものまで、つまり「上方イロハ譬えかるた」が消える終末期までずっと続いている。「そ」の絵札を見れば、それが江戸時代末期(1854~67)のかるたか、明治時代(1868~87)、中期(1887~96)のかるたかがわかるのである。

「ゑようにもちのかわむく」
「ゑようにもちのかわむく」

もう一つは、「ゑ」の札である。これは、江戸時代から「ゑんのしたのまひ」であったのに、「上方イロハ譬えかるた」では「ゑようにもちのかはをむく」に変わった。これの絵札では、包丁でもちの皮をむいている若い男も明治四年(1871)の断髪令以降の短髪である。この譬えは、栄華を極める上流階級の者は、餅さえも剥いて食べるほどの法外な驕りをするという意味である。維新後に成り上がった苦労知らずのにわか成金の家のドラ息子ということであろう。

牧村と同じ時期に、大阪生まれで東京の暮らしが長かった作家の幸田露伴は京都大学の講師となって赴任した先で、自分が「東京」で慣れ親しんでいた「犬棒かるた」とはまるで違う「西京」の「イロハかるた」を発見して興味を引かれ、『東西伊呂波短歌評釈』[8]を著した。露伴は京都で知ったので「上方」の「イロハかるた」を「西京」のカルタと表現しているが、それは、「サンマは目黒」であり、「イロハかるた」の本場、産地は大阪ではなくて京都であると積極的に主張する趣旨ではない。「上方かるた」についての同時代者の証言としては牧村のものの方が大事である。

なお、大正三年(1914)に京都の吉祥真雄は「上方イロハかるた」の句意を「いやいや三杯」から「京に田舎あり」まで順次に解説した『新譯イロハかるた』[9]を出版している。上方カルタの凋落ぶりからすると最末期に近い出版である。

牧村と幸田の文章を使って「上方イロハかるた」の挽歌を歌ったのは昭和後期(1945~89)の森田誠吾であった。森田は昭和四十八年(1973)の『イロハかるた噺』では京都起源説で、カルタについては「画工にしても、それを板にする彫工、摺工(しょうこう)にしても、更に、それを仕立てる経師屋(きょうじや)にしても、京には、熟練者が揃っていました。その歴史の中から、天明前後に、それまでに、作られていた『ことわざかるた』を、『いろは順』に組み直すという工夫をして、『上方いろは』が誕生したようです」[10]としていたが、翌昭和四十九年(1974)の論文では「譬えカルタ」を考案したのは「かるた屋」で、「この『カルタ屋』氏は、おそらく、上方の住人ではあったろうが、いつの誰かは、わからない」[11]となり、昭和五十五年(1980)の論文では改めて京都起源説を唱えて「実状は大坂(或は名古屋)のイロハかるたは無かったというべきです」[12]としていた。それが昭和五十九年(1984)の「イロハかるたの流れ」[13]では一変して、明和年間の大坂の書籍出版記録を根拠にして、大坂江戸堀三丁目の本屋、千種屋新右衛門が「譬えカルタ」の考案者で版元であるとした。この「イロハかるたの流れ」は、旧作から十年後に森田が自説を大坂起源説に改めた論文であり、森田のイロハかるた史研究では最後の到達点になっている。

昭和五十年代(1975~84)には私も森田と会う機会が何回もあり、千種屋の「譬へかるた」に触れている明和年間(1764~72)の大坂の出版記録をなぜ顧みないのかと直接に問いただしたこともあった。そういう場では若造の無礼な質問にはかばかしい回答をすることはなかったが、すでに大家とされているのにこうして黙って自主的な改説を行う勇気と真実の前で謙虚な研究者の心に敬意を感じる。(ただし、森田の改説は各方面からの指摘の結果であろう。私の呈した疑問など、森田には蚊ほどの痛痒もなかったのではなかろうか)。森田は、この文章では、「イロハかるた」の歴史を明和期(1764~72)の千種屋新右衛門、その後に「譬合せかるた」を「いろは」順に整序して「イロハ譬えかるた」にした天明期(1781~89)の「伊呂波分け」文芸の申し子の無名氏、「イロハがるたで奥の間に忍び込」の句も含めて全編が忠臣蔵絡みの川柳という『柳多留・九十五編・続』を文政十年(1827)に刊行した江戸上野の版元・星運堂氏、幕末(1854~67)の西沢一鳳、斉藤月岑、明治期(1868~1912)に語った牧村史陽、幸田露伴、大正期(1912~26)の島崎藤村といった人々の人物史を通して説明していて、半ば文芸に食い込んでいる叙述は、元来が半ば文芸の世界に属する「譬えかるた」の歴史に相応しく卓抜である。こうして穏やかに説を改めて、「一時代の一階層のこころを宿し、茫々たる二世紀の煙霧の中を、民衆とともに生き抜いたアンソロジーとしては、長く記憶されるであろう」[14]と追憶を書き切る森田の心と技に感嘆するところである。このような経過で、森田誠吾の後には、京都起源説は学術的な主張としては消滅した。森田以前に、京都の任天堂の新商品販売戦略に加担して無理やり京都起源説を唱えようとした鈴木棠三は売文学者に堕して悲劇であるが、大坂起源説に安定した森田以後になってもなお、大石天狗堂の同じく新商品の販売戦略に乗って架空の京都起源説を主張した吉海直人は、カール・マルクスのセリフではないが、「歴史は繰り返す。一度目は悲劇、二度目は喜劇」である。


[1] 牧村史陽「いろはたとへ」『大阪方言辞典』杉本書店、昭和三十年、七七九頁。同『新版大阪ことば事典』講談社、平成十六年、七六五頁。

[2] ■は未刻のままに印刷された箇所。

[3] 池田弥三郎、檜谷昭彦『いろはかるた物語』、角川書店、昭和四十八年。

[4] 戸板康二『いろはかるた』駸々堂ユニコンカラー双書、駸々堂出版、昭和五十三年。なお、戸板には、『いろはかるた随筆』、丸ノ内出版、昭和四十七年、もある。

[5] 檜谷昭彦『【私説いろはかるた物語】』、創拓社、平成二年。

[6] 藤本義一・杉浦日向子『いろはカルタに潜む江戸のこころ・上方の知恵』、小学館ジェイブックス、小学館、平成十年。

[7] 時田昌瑞『イロハかるたの文化史』、生活人新書、NHK出版、平成十六年。同『岩波いろはかるた辞典』、岩波書店、平成十六年。

[8] 幸田露伴「東西伊呂波短歌評釈」『露伴随筆』第二冊、岩波書店、昭和五十八年、三八五頁。

[9] 吉祥真雄『新譯いろはかるた』、藤井文政堂、大正三年。

[10] 森田誠吾『いろはかるた噺』、求龍堂、昭和四十八年、三五頁。

[11] 森田誠吾「京の夢・江戸の夢 いろはかるた考疑」、『別冊太陽いろはかるた』、平凡社、昭和四十九年、六九頁。

[12] 森田誠吾「『いろは譬え』にみる西と東」『言語生活』昭和五十五年一月号、筑摩書房、二七頁。

[13] 森田誠吾「いろはかるたの流れ」『歌留多』、平凡社、昭和五十九年、二二一頁。

[14] 同前、二三二頁。

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